通訳を介して交わした言葉が、相手の顔に届いたかどうか分からない。うなずきはあった。笑顔もあった。それでも帰り道、自分が伝えたかったものの半分も届いていないという感覚が残った。その感覚を「失敗」と呼ぶとき、私たちは対話に何を期待していたのか。完全に分かりあえたと感じた瞬間さえ、後から振り返れば思い込みだったと気づくことがある。それでも人は話しかけ、耳を傾け、また言葉を探す。その反復の中に、対話の本当の価値が潜んでいる。
京都帝国大学で哲学を講じた九鬼周造(1888–1941)は、1935年の著作『偶然性の問題』の中で、他者との出会いを「偶然的必然」と呼んだ。偶然に隣り合わせになった二人の間には、どれだけ言葉を重ねても埋まらない距離がある。九鬼はその距離を欠陥と見なさなかった。彼の「いき(粋)」の概念が示すように、完全に近づかないことで成立する緊張こそが、関係を生きたものにする。わかりあえなさは対話の失敗ではなく、対話を成立させる構造的条件なのだ。
西洋の対話論もまた、この逆説を知っていた。ドイツの哲学者ハンス=ゲオルク・ガダマー(1900–2002)は、解釈学の主著『真理と方法』(1960年)で「地平融合(Horizontverschmelzung)」という概念を提示した。異なる地平を持つ者が対話するとき、どちらかの地平が他方を吸収するのではなく、両者の部分的な重なりから新しい意味の地平が生まれる。完全な理解は地平融合の目標ではない。むしろ融合しきれない余白こそが、次の問いを生む。
言語そのものが、分かりあえなさを構造として抱えている。哲学者廣松渉(1933–1994)は、意味は個々の主観の中にあるのではなく、つねに「あいだ」に生成されると論じた(『世界の共同主観的存在構造』、勁草書房、1972年)。この「共同主観性」の視点から見ると、対話とは二つの主観が情報を交換する行為ではなく、二者の「あいだ」に意味という第三の場を立ち上げる行為だ。その場は当事者のどちらも完全には所有できない。だからこそ、対話は本質的に未完であり続ける。
では、この未完の対話に経済的な価値はあるのか。ハーバード大学のロバート・パットナムが2000年の著書『孤独なボウリング』で示した「橋渡し型社会関係資本(bridging social capital)」の概念によれば、異質な他者との継続的な対話は信頼を醸成し、取引費用を下げ、協力を可能にする。インドの経済学者アマルティア・センのケイパビリティ論はさらに踏み込み、対話は人が自分の潜在能力を発見し、選択肢を広げる営みだと論じる。金銭的価値と非資金的価値は、ここで一本の線でつながる。
だがレヴィナス(1906–1995)は、その価値論に鋭い問いを投げる。他者を「役に立つから」理解しようとする態度は、他者を自己の目的に回収する暴力ではないか。彼の「顔(visage)」の概念は、理解を超えた他者への応答責任を示す。顔は把握されることを拒む。それでも私たちは顔の前に立ち尽くし、応答せずにはいられない。対話の根拠は有用性ではなく、理解不可能な他者の前に立つことで生じる倫理的な呼びかけにある。価値は対話の「結果」ではなく、対話という「行為そのもの」に宿る。
わかりあえないことは、対話を終わらせる理由ではない。それは対話を始め続ける理由だ。九鬼周造の「いき」が示したように、距離が消えた瞬間に関係の緊張は失われる。完全な理解を達成した対話は、もはや対話ではなく同化だ。分かりあえないという感覚を抱えたまま相手の顔に向かい続けること——その不完全な反復の中にこそ、人間が人間であり続ける条件が刻まれている。