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Vol.001 / 2026.05.23 (Sat) / No.0247
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非効率が、人を育てていた

松井幹雄橋が得意な土木設計家
2026.05.30READ 7 MIN
ORIGINAL QUESTION — この記事のはじまり (問い・背景)
テーマ
幸せは、属人的な働き方から
問い・背景
働き方を考える際、世間では、業務作業の脱属人化、とか、効率化、といった言葉が、結構疑いなく良いこととして考えられている節があるように思います。が、しかし、自分自身の働きがいのある仕事の仕方を振り返ると、それは、まさに私にしか出来ない発想であり、創造の仕方が出来たときに、働きがいが生まれていることを思い出します。年月を経て、年老いて頃に、それは効率的になっていきますが、若い頃は、ムダをして、失敗をして、それを乗り越えることで、働き方が洗練され、タフさも備わってきたように思います。 というわけで、働くことを考える際の、基盤となる考え方そのものをひっくり返したいと思っています。

締め切りを過ぎた夜、誰にも頼めない問題を一人で抱えていた。資料を何度も作り直し、ゴミ箱に捨て、また書き始める。翌朝、ようやく手渡したアイデアは、自分の経験の皺から生まれたものだった。あの夜の非効率な格闘がなければ、あの一枚は存在しなかった。振り返れば、働きがいを感じた瞬間はいつも、マニュアルの外側にあった。「私にしかできない」という感覚——それは自己満足ではなく、人が職業的に育っていく過程で生まれる、最も正直な手応えではないだろうか。

深夜のオフィスで、自分の名前だけが責任欄に書かれた企画書を前にしたとき、人は奇妙な覚醒を経験する。手順書はない。前例もない。あるのは自分の感覚と、これまでに積んだ失敗の記憶だけだ。そういう状況でこそ、思考は普段とは違う回路を走り始める。非合理に見える熱量、迂回、試行錯誤——それらは非効率の証拠ではなく、「私にしかできない」仕事が生まれる産道だった。効率とは無縁のその時間に、働きがいの核心が宿っていた。

「ムダの排除=善」という信念は、永遠の真理ではない。20世紀初頭、フレデリック・テイラーは工場労働を動作単位に分解し、個人の技量を標準化された手順に置き換えた。テイラー主義(科学的管理法)と呼ばれるこの思想は、産業合理化の名のもとで急速に広がった。社会学者ハリー・ブレイヴァーマンは1974年の著作『労働と独占資本』で、この過程を「脱熟練化」と呼び、職人が手と頭を一体として使っていた時代の終焉を批判的に記録した。働くことの意味が、個人の身体から切り離されていく歴史が、そこにある。

哲学者アリストテレスは紀元前350年頃の『ニコマコス倫理学』第六巻において、「フロネーシス(実践的知恵)」を、普遍的規則の機械的な適用とは根本的に異なる能力として描いた。それは具体的な状況のただ中で、よく生きることへ向けて判断する力であり、失敗・迂回・試行錯誤の蓄積によってのみ形成される。規則を覚えることでは手に入らない。さらに心理学者エドワード・デシとリチャード・ライアンの自己決定理論は、人が自律性と有能感を感じるとき内発的動機づけが高まることを実証した。標準化はこの二つの欲求を同時に侵食する。

今日、一つだけ、自分の流儀でやってみてください。会議の準備を、テンプレートではなく自分の言葉で組み立てる。メールの書き出しを、慣例ではなく今日の自分の感覚で選ぶ。ハンガリー出身の心理学者ミハイ・チクセントミハイは、挑戦の水準と自分の技能が均衡する地点で「フロー(最適経験)」と呼ばれる没入状態が生まれることを示した。その均衡点を自分で設定する行為そのものが、属人的な働き方の入口だ。属人化は大げさな宣言から始まるのではなく、日々の小さな選択の積み重ねとして静かに始まる。

若いときの非効率な探索は、後年の洗練の土台になる。組織論者ジェームズ・マーチは1991年の論文で、「探索(exploration)」と「活用(exploitation)」のジレンマを論じた。短期効率を追う「活用」に偏った組織は、中長期で適応能力と革新性の両方を失う——ムダを排除した組織が最も非効率になるという、直感に反する結論だ。アリストテレスが区別したポイエーシス(外部に成果を産出する制作)とプラクシス(行為それ自体が目的である実践)の対比は、この問いを個人の次元に降ろす。「効率的に成果を出す」ことと「働くこと自体に意味が宿る」ことは、根本的に別の問いに答えている。

脱属人化は、誰かの幸せを静かに脱いでいたのかもしれない。効率化が組織の生産性を上げる一方で、個人のフロネーシス形成・内発的動機・熟達の曲線を削いできたとすれば、それは生産性の向上ではなく、人が人として育つ条件の喪失だ。属人的な働き方はリスクではない。それは、人が職業的に成熟するための、取り替えのきかない道筋である。

DEEPER/学術的観点から
1993年、米フロリダ州立大学のK・アンダース・エリクソンらが『Psychological Review』誌に発表した研究は、世界水準のバイオリニストと平均的演奏家を分けた最大の要因が「才能」でも「練習量の総計」でもなかったことを示した。決定的だったのは、失敗フィードバックを意図的に組み込んだ練習の質と構造——「うまくいかない経験を精密に設計すること」だった。ミスを排除する効率的環境は、熟達そのものを阻害するという逆説が、認知科学と実験心理学の双方から実証されている。この知見は、組織が「エラーレスな設計」を優先するとき、個人の熟達曲線が構造的に阻まれることを意味する。
  • SIGNAL 01

    エリクソンらの研究では、世界水準のバイオリニストは18歳までに平均7,410時間の意図的練習を積み、平均的演奏家の3,420時間と倍以上の差があった。量より「失敗を含む構造化された練習の質」が熟達を規定した。(Ericsson et al., 1993, Psychological Review, 100(3): 363–406)

  • SIGNAL 02

    マーチの組織シミュレーション研究では、「活用」のみに特化した組織は短期成果を最大化するが、環境変化への適応で「探索」型組織に最終的に劣ることが数理モデルで示された。効率化の長期コストを定量化した先駆的論文。(March, 1991, Organization Science, 2(1): 71–87)

  • SIGNAL 03

    デシとライアンのメタ分析では、外的報酬や監視による統制が内発的動機づけを有意に低下させることが128研究・約2万人のデータで確認された。自律性の剥奪が働きがいを構造的に損なうことの実証的根拠。(Deci et al., 1999, Psychological Bulletin, 125(6): 627–668)

  • SIGNAL 04

    チクセントミハイの経験サンプリング法を用いた研究では、フロー状態にある時間の割合が高い人ほど主観的幸福感・生産性・創造的産出の三指標すべてで高いスコアを示した。属人的な挑戦設定が幸福と創造を同時に生む証拠。(Csikszentmihalyi & LeFevre, 1989, Journal of Personality and Social Psychology, 56(5): 815–822)

KEY REFERENCE/参考文献
  • Ericsson, K. A., Krampe, R. T., & Tesch-Römer, C. (1993). "The role of deliberate practice in the acquisition of expert performance." Psychological Review, 100(3): 363–406. DOI: 10.1037/0033-295X.100.3.363

    意図的練習の原典。失敗フィードバックを組み込んだ練習構造が熟達を生む仕組みを実験的に示し、「ムダな試行錯誤」が精密な学習プロセスであることを論証する。

  • March, J. G. (1991). "Exploration and exploitation in organizational learning." Organization Science, 2(1): 71–87. DOI: 10.1287/orsc.2.1.71

    探索と活用のジレンマを論じた組織論の古典。効率化(活用)への偏重が中長期的に組織の適応能力と革新性を損なうことを数理モデルで示す。

  • Deci, E. L., Koestner, R., & Ryan, R. M. (1999). "A meta-analytic review of experiments examining the effects of extrinsic rewards on intrinsic motivation." Psychological Bulletin, 125(6): 627–668. DOI: 10.1037/0033-2909.125.6.627

    128研究のメタ分析。外的統制が内発的動機づけを有意に低下させることを大規模に実証し、標準化・管理化が働きがいを構造的に侵食するメカニズムの実証的基盤となる。

  • Aristotle (ca. 350 BC). Nicomachean Ethics, Book VI. (アリストテレス『ニコマコス倫理学』第六巻)

    フロネーシス(実践的知恵)とプラクシス・ポイエーシスの区別を論じた哲学的原典。規則の機械的適用ではなく状況判断による実践こそが人間的卓越であるという命題の哲学的基盤。

  • Csikszentmihalyi, M., & LeFevre, J. (1989). "Optimal experience in work and leisure." Journal of Personality and Social Psychology, 56(5): 815–822.

    経験サンプリング法を用い、挑戦と技能の均衡点で生じるフロー状態が主観的幸福感・創造的産出を同時に高めることを実証した原著論文。

  • Sennett, R. (2008). The Craftsman. Yale University Press.

    職人的労働における手と頭の統合、物質との対話、問題発見と解決の不可分性を社会学的・歴史的に論じる。テイラー主義的分業が職人的知を解体してきた過程の批判的分析。

  • Braverman, H. (1974). Labor and Monopoly Capital: The Degradation of Work in the Twentieth Century. Monthly Review Press.

    テイラー主義による「脱熟練化」の過程を労働社会学的に記述した古典。個人の技量が標準化された手順に置き換えられることで働きがいが構造的に失われる過程を論じる。

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