締め切りを過ぎた夜、誰にも頼めない問題を一人で抱えていた。資料を何度も作り直し、ゴミ箱に捨て、また書き始める。翌朝、ようやく手渡したアイデアは、自分の経験の皺から生まれたものだった。あの夜の非効率な格闘がなければ、あの一枚は存在しなかった。振り返れば、働きがいを感じた瞬間はいつも、マニュアルの外側にあった。「私にしかできない」という感覚——それは自己満足ではなく、人が職業的に育っていく過程で生まれる、最も正直な手応えではないだろうか。
深夜のオフィスで、自分の名前だけが責任欄に書かれた企画書を前にしたとき、人は奇妙な覚醒を経験する。手順書はない。前例もない。あるのは自分の感覚と、これまでに積んだ失敗の記憶だけだ。そういう状況でこそ、思考は普段とは違う回路を走り始める。非合理に見える熱量、迂回、試行錯誤——それらは非効率の証拠ではなく、「私にしかできない」仕事が生まれる産道だった。効率とは無縁のその時間に、働きがいの核心が宿っていた。
「ムダの排除=善」という信念は、永遠の真理ではない。20世紀初頭、フレデリック・テイラーは工場労働を動作単位に分解し、個人の技量を標準化された手順に置き換えた。テイラー主義(科学的管理法)と呼ばれるこの思想は、産業合理化の名のもとで急速に広がった。社会学者ハリー・ブレイヴァーマンは1974年の著作『労働と独占資本』で、この過程を「脱熟練化」と呼び、職人が手と頭を一体として使っていた時代の終焉を批判的に記録した。働くことの意味が、個人の身体から切り離されていく歴史が、そこにある。
哲学者アリストテレスは紀元前350年頃の『ニコマコス倫理学』第六巻において、「フロネーシス(実践的知恵)」を、普遍的規則の機械的な適用とは根本的に異なる能力として描いた。それは具体的な状況のただ中で、よく生きることへ向けて判断する力であり、失敗・迂回・試行錯誤の蓄積によってのみ形成される。規則を覚えることでは手に入らない。さらに心理学者エドワード・デシとリチャード・ライアンの自己決定理論は、人が自律性と有能感を感じるとき内発的動機づけが高まることを実証した。標準化はこの二つの欲求を同時に侵食する。
今日、一つだけ、自分の流儀でやってみてください。会議の準備を、テンプレートではなく自分の言葉で組み立てる。メールの書き出しを、慣例ではなく今日の自分の感覚で選ぶ。ハンガリー出身の心理学者ミハイ・チクセントミハイは、挑戦の水準と自分の技能が均衡する地点で「フロー(最適経験)」と呼ばれる没入状態が生まれることを示した。その均衡点を自分で設定する行為そのものが、属人的な働き方の入口だ。属人化は大げさな宣言から始まるのではなく、日々の小さな選択の積み重ねとして静かに始まる。
若いときの非効率な探索は、後年の洗練の土台になる。組織論者ジェームズ・マーチは1991年の論文で、「探索(exploration)」と「活用(exploitation)」のジレンマを論じた。短期効率を追う「活用」に偏った組織は、中長期で適応能力と革新性の両方を失う——ムダを排除した組織が最も非効率になるという、直感に反する結論だ。アリストテレスが区別したポイエーシス(外部に成果を産出する制作)とプラクシス(行為それ自体が目的である実践)の対比は、この問いを個人の次元に降ろす。「効率的に成果を出す」ことと「働くこと自体に意味が宿る」ことは、根本的に別の問いに答えている。
脱属人化は、誰かの幸せを静かに脱いでいたのかもしれない。効率化が組織の生産性を上げる一方で、個人のフロネーシス形成・内発的動機・熟達の曲線を削いできたとすれば、それは生産性の向上ではなく、人が人として育つ条件の喪失だ。属人的な働き方はリスクではない。それは、人が職業的に成熟するための、取り替えのきかない道筋である。