子どもが砂場で転んだ瞬間、ある保育者はすでに駆け寄っている。別の保育者は一拍置いて子どもの表情を読み、もう一人は「昨日、自分で立ちあがろうとしていた」という記憶を手がかりに全身で状況を受け取る。三者が見ていた光景は同じなのに、身体の動き出し方はまるで違う。これは熟練度の差でも、愛情の深さの違いでもない。保育者の身体に刻まれた「何を介入の契機として知覚するか」という感受性の型の差異である。その型はどこで、どのように分かれるのか。
フランシスコ・ヴァレラ(チリ出身の認知科学者・神経現象学者)は1999年の著書『Ethical Know-How』の中で、道徳的判断は規則を適用する行為ではなく、身体化された習慣から即興的に生まれると論じた。保育者が「介入すべきか」を判断するとき、その判断は頭の中の規則参照ではなく、身体が環境と動的にカップリングする中から生成される。ヴァレラはこれを「倫理的専門知(ethical expertise)」と呼んだ。保育の「見立て」とは、まさにこの身体化された即興知の発現である。
ピエール・ブルデュー(フランスの社会学者)のハビトゥス概念は、身体的反応様式が個人の経験履歴・所属集団・職場文化の蓄積によって無意識に型づけられることを示す。反射的介入か保留かという分岐は、意識的選択以前に「身体化された傾向性」として形成されている。注目すべきは、同じ年数を保育の場で過ごしても、どのような職場文化の中にいたかによってハビトゥスの型が根本的に異なるという点だ。経験年数は身体性を分かつ条件ではなく、経験の「質」と「文脈」こそが条件となる。
ジーン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガーが1991年に提唱した「正統的周辺参加(Legitimate Peripheral Participation)」の理論によれば、身体知は明示的な研修よりも、熟練者との共同実践・観察・模倣を通じて形成される。保育者が「保留する身体性」を獲得するのは、保留することを言葉で教わったからではなく、保留する先輩の背中を繰り返し目撃し、その間(ま)の感触を自分の身体に写し取ったからである。どの実践共同体に属したかが、身体性の型を分かつ最初の分岐点となる。
ダニエル・スターン(米コーネル大学の発達心理学者)が提唱した情動調律(affect attunement)の概念は、他者の情動状態に身体的に同調するプロセスを記述する。保育者が「まず共感する身体性」を持つとき、その根底には保育者自身の幼少期における情動調整の発達史が刻まれている。自分の情動を安定的に調整できる経験を積んできた人ほど、子どもの混乱に飲み込まれずに共感できる。保育者の身体性を育てるには、子どもへの関わり方を練習する前に、自分自身の情動の歴史を知ることが先に来る。
ジェームズ・ギブソン(米コーネル大学の知覚心理学者)のアフォーダンス理論は、同じ環境でも行為者が知覚する「行為可能性」は異なることを示す。保育室の空間設計・子どもとの関係性の深さ・その日の保育者自身の身体状態が、何を「介入の契機」として知覚するかを規定する。疲労した身体は介入の閾値を下げ、余白のある身体は保留の余地を広げる。保育者が自分の身体状態を日常的に把握することは、自己管理の問題ではなく、子どもへの知覚の質を左右する実践的条件である。
身体性を分かつ条件は、個人の内側だけにあるのではない。職場文化・実践共同体・保育者自身の情動史・そしてその日の身体状態という複数の層が交差する場所に、身体性の型は生まれる。問うべきは「どうすれば良い保育者になれるか」ではなく、「自分の身体はいま、どの閾値で世界を切り取っているか」である。その問いを持つ保育者の身体は、すでに変容の入口に立っている。