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Vol.001 / 2026.05.23 (Sat) / No.0247
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農学部は農家を育てていない——知識と土壌の間にある深い溝

野村香瑚
2026.06.17READ 8 MIN
ORIGINAL QUESTION — この記事のはじまり (問い・背景)
テーマ
農家になる人がいないのは、なぜ?
問い・背景
農業における課題は多い。また、最も気になるのは、なぜ農学部の人気は増えてきているのに、その中で、なぜ農家自体になる人は少ないのか?? また、農家として成功してるのはどんな人なのか?? この疑問が出てきた背景としては、現在農学部に在籍する修士1年生の私は、環境再生型農業を研究しているが、農家になる人が少ないという実情を踏まえて。 また、私は、将来的に儲かる農業×環境に良い農業=不耕起栽培や無農薬・化学肥料不使用で、農業経営をしたいと思っているから、上記の疑問が気になる。 農家になることは、生産者ではなく、経営者って立ち位置?になるからこそ、農学部に在籍していたからといって、農家になる人がいない1つの理由なのか? また、インフルエンサー農家?が流行っている気がするけど、あれってどうなのかな?ただ、目立つだけになっていない? そして、これからの農業と農家ってどうなるのかな? 最終的に、私は、農業をやりたい。でも儲かりたいは弱くて、農地でコミュニティ運営をして、海外観光客などの活動場所にしたり、こども食堂の場、料理ができるスペースにしたい。小さい頃からの夢。

農学修士1年生の私が初めて畑に立ったとき、頭の中には不耕起栽培の理論があった。土壌微生物の働き、炭素固定のメカニズム、有機物の分解速度——教室で積み上げた知識が、鍬を持ったことのない両手の前で、静かに崩れていった。土は教科書の図とは違う手触りをしていた。知識があることと、土とともに生きることは、まるで別の技能だった。農学部の志願者が増え続けるいま、なぜ農家になる人は増えないのか。その問いは、私自身の身体が最初に立てた問いでもある。

鍬を握った瞬間、私は自分が農家ではないことを知った。不耕起栽培の理論は頭にある。土壌有機物が微生物の働きによって安定化するプロセスも、炭素窒素比が作物の生育に与える影響も、論文の言葉として知っている。しかし土の前に立つと、その知識は何も教えてくれなかった。どこから鍬を入れるか、どの深さで止めるか、土の乾き具合をどう読むか——それは身体が長い時間をかけて土壌と交渉しながら獲得するものだった。農学部で学ぶことと農家になることの間には、この見えない断絶がある。

日本の農業就業人口は1960年代の約1,400万人から2020年には約136万人へと激減した一方、農学部の志願者数は2010年代以降増加傾向にある。農学教育は「農業科学の研究者・技術者」を育てる設計であり、「農業経営者」を育てる設計ではない。農地取得には数百万円から数千万円の初期費用がかかり、収益が安定するまでに3〜5年を要することが多い。農産物価格の市場不完全性と気候リスクが重なれば、農学部卒業生が農家を回避することは感情的な逃避ではなく、情報に基づく合理的選択になる。知識と参入の間に、経済の溝が走っている。

英国エセックス大学の人類学者ティム・インゴルドは著作『The Perception of the Environment』(2000年)で、農家の知識を「命題的知識(propositional knowledge)」と「居住的技能(dwelling skill)」に分けて論じた。前者は教室で学べる言語化された知識、後者は身体と環境の長期的な関与から生まれる実践的技能である。農学部教育は命題的知識の伝達に偏り、居住的技能を育む機会を構造的に欠いている。ワーヘニンゲン大学のヤン・ダウェ・ファン・デル・プルーフが「農民的条件」と呼んだ——市場・制度・技術から自律性を保ちながら生計を成立させる能力——もまた、教室では習得できない。

インフルエンサー農家という現象は農業の可視化に貢献する一方、フォロワー数が農業技術や経営力の代理指標として機能し始めるとき、土・生態系・持続性という農業の本質的価値は二次的なものになる。しかし批判だけでは前に進めない。コミュニティ支援農業(CSA)は消費者が農家と直接契約して農業リスクを分担するモデルであり、社会的農業は農業活動を福祉・教育・地域再生と統合する実践である。最初の一歩として試せることがある——地域の人と農地で一緒に料理をする、農地を開放して子どもたちが土に触れる場をつくる。農地を生産空間ではなく関係的実践の場として設計することは、今日から始められる。

「環境に良い農業は儲からない」という常識を、長期データが静かに覆している。ロデール研究所が1981年から30年間実施した「Farming Systems Trial」では、有機農業は慣行農業と同等の収量を維持しながら投入コストを15〜20%削減し、土壌有機物を15〜28%増加させた。デイヴィッド・ピメンテルらが2005年に試算した有機農業の生態系サービス価値——土壌侵食防止・水質保全・生物多様性維持——は年間1エーカーあたり200ドル以上に上り、農家が市場価格に反映されないまま社会に提供し続けている価値の規模を示した。農業の多機能性を認める社会設計が整えば、環境再生型農業の経済的不利は構造的に解消しうる。

農家になることは「生産者」でも「経営者」でもなく、土地とともに生きる実践者になることだとインゴルドは言う。彼の「タスクスケープ(taskscape)」概念——複数の人間が共同作業を通じて場所を意味づけるプロセス——に照らせば、農地で子ども食堂を開き、海外からの来訪者と料理をつくり、地域の人が集う場を育てることは、農業の「傍ら」にある活動ではない。それこそが農業の本体である。「なぜ農家になる人がいないのか」という問いは、問い直されるべきだ。農家とは何者か——その問いに答えを出せる人だけが、次の農業をつくる。

DEEPER/学術的観点から
2012年、スイス連邦農業研究所のアンドレアス・ガッティンガーらはPNASに74の有機農業サイトのメタ分析を発表し、有機農業の表土炭素蓄積量が慣行農業より平均3.5トン/ヘクタール高いことを示した(Gattinger et al., 2012, PNAS 109(44): 18226-18231)。この自然科学の知見には、深い社会科学的含意がある。ファン・デル・プルーフが指摘するように、土壌炭素の蓄積は農家が市場に売れない「自律性の蓄積」でもある。土が豊かになるほど外部投入への依存が減り、農民的条件が強化される。環境再生型農業は単なる「正しい農業」ではなく、経済的自律性を土壌に埋め込む長期戦略として読み直されつつある。
  • SIGNAL 01

    日本の農業就業人口は1960年の約1,454万人から2020年には約136万人へと約91%減少した一方、農学部系統の大学入学者数は2010年代以降増加傾向が続いており、知識需要と就農意欲の乖離が拡大している。(農林水産省「農林業センサス」2020年)

  • SIGNAL 02

    ロデール研究所の30年比較試験(1981-2011)では、有機農業システムは慣行農業と同等の収量を維持しながら投入コストを15〜20%削減し、土壌有機物を15〜28%増加させた。「環境に良い農業は収益性が低い」という前提が長期データによって否定される。(Rodale Institute, 2011, Farming Systems Trial: 30-Year Report)

  • SIGNAL 03

    ピメンテルらの試算によれば、有機農業が提供する生態系サービス(土壌侵食防止・水質保全・生物多様性)の貨幣換算価値は年間1エーカーあたり200ドル以上に上り、農家が市場価格に反映されないまま社会に無償提供している価値の規模を示した。(Pimentel, D. et al., 2005, BioScience 55(7): 573-582)

  • SIGNAL 04

    ガッティンガーらのメタ分析(74サイト)では、有機農業の表土炭素蓄積量が慣行農業より平均3.5トン/ヘクタール高く、土壌炭素固定による気候変動緩和効果が確認された。環境再生型農業は生態的価値と経済的自律性を同時に蓄積する長期戦略として機能しうる。(Gattinger, A. et al., 2012, PNAS 109(44): 18226-18231)

KEY REFERENCE/参考文献
  • Gattinger, A. et al. (2012). "Enhanced top soil carbon stocks under organic farming." PNAS, 109(44): 18226-18231. DOI: 10.1073/pnas.1209429109

    74の有機農業サイトを対象としたメタ分析で、有機農業の表土炭素蓄積量が慣行農業より有意に高いことを示した環境再生型農業の自然科学的根拠。

  • Pimentel, D. et al. (2005). "Environmental, Energetic, and Economic Comparisons of Organic and Conventional Farming Systems." BioScience, 55(7): 573-582. DOI: 10.1641/0006-3568(2005)055[0573:EEAECO]2.0.CO;2

    有機農業が提供する生態系サービスを貨幣換算し、市場価格に反映されない外部性の規模を定量化した、農業の多機能性論の実証的基盤。

  • Pretty, J. N. et al. (2006). "Resource-conserving agriculture increases yields in developing countries." Environmental Science & Technology, 40(4): 1114-1119. DOI: 10.1021/es051670d

    286の持続可能農業プロジェクトを分析し、資源節約型農業が平均79%の収量増加をもたらすことを示した、環境と収益性の両立可能性を示す実証研究。

  • Ingold, T. (2000). The Perception of the Environment: Essays on Livelihood, Dwelling and Skill. Routledge.

    「居住的視点(dwelling perspective)」と「タスクスケープ(taskscape)」概念を提示し、農家の知識が命題的知識ではなく身体と環境の長期的関与から生まれる技能であることを論じた人類学の基礎文献。

  • van der Ploeg, J. D. (2008). The New Peasantries: Struggles for Autonomy and Sustainability in an Era of Empire and Globalization. Earthscan.

    「農民的条件(peasant condition)」概念を通じて、市場・制度・技術から自律性を保ちながら生計を成立させることの困難が農家参入を阻む「自律性コスト」として機能することを論じた農村社会学の主要著作。

  • Altieri, M. A. (1995). Agroecology: The Science of Sustainable Agriculture. Westview Press.

    アグロエコロジーの科学的体系を構築した統合レビューであり、不耕起栽培・無農薬農業の生態的根拠と環境再生型農業の実践的枠組みを提供する基礎文献。

  • Rodale Institute (2011). Farming Systems Trial: 30-Year Report. Rodale Institute.

    1981年から30年間の有機農業と慣行農業の比較試験データを公開した報告書。有機農業が同等収量・低投入コスト・高土壌有機物を達成することを長期データで示し、「環境に良い農業は儲からない」という常識を覆す。

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