子どもが泣き止んだ瞬間、保育士の顔に浮かぶ安堵は、業務上の「成果」なのか、それとも人間としての喜びなのか。その区別が曖昧なまま、保育士たちは毎日8時間以上、感情を精密に調律しながら働いています。抱っこし、声のトーンを変え、泣き声の意味を読み取り、保護者の不安を受け止める。これほど高度な感情的技能を要する仕事が、なぜ最低賃金水準に張りついたままなのか。2015年に始まった保育士等キャリアアップ研修制度は、学びによって処遇改善を実現しようとした試みでした。しかし10年が経過した2025年、民間企業が研修要件なしで初任給を一気に引き上げる動きが加速するなか、この制度は「学びへの動機」を育てたのか、それとも低賃金を正当化する装置として機能してきたのか。
保育士の一日を外から見れば、子どもと遊んでいるように映るかもしれません。しかし内側では、絶え間ない感情の管理が続いています。アーリー・ラッセル・ホックシールド(1983年)は、航空客室乗務員の調査を通じて「感情労働(emotional labour)」——職業上の要求に応じて自分の感情を意図的に管理・演出する働き——を概念化しました。彼女が特に重視したのは、表面だけ笑顔を作る「表層演技(surface acting)」と、内面から感情そのものを変える「深層演技(deep acting)」の区別です。保育士が求められるのは後者です。子どもへの本物の温かさを演じ続けることで、やがて自分の感情と職業上の感情の境界が溶け、消耗——バーンアウト——が生じます。この消耗は個人の弱さではなく、感情を商品として要求する労働構造が生み出す必然です。ホックシールドはこの状態を「感情的不協和(emotional dissonance)」と呼びました。
感情的不協和が蓄積する職場に、2015年、キャリアアップ研修という「学びの梯子」が架けられました。乳児保育・幼児教育・マネジメントなど8分野の研修を修了することで、月額5,000円から40,000円の処遇改善加算が得られる仕組みです。学びと報酬を連動させるこの設計は、一見合理的に見えます。しかし10年後の現実は、その物語に亀裂を入れています。民間企業が研修要件を課さずに初任給を30万円超に設定し始めるなか、研修を重ねた保育士の手取りとの差は縮まるどころか、相対的に広がりつつあります。ガイ・スタンディング(2011年)が「プレカリアート(precariat)」——安定した雇用・職業アイデンティティ・社会的保護を構造的に欠いた不安定労働者——として描いた姿は、研修修了証を積み上げながら賃金の底に張りついたままの保育士に重なります。学びが自己実現ではなく、低賃金の正当化に回収されるとき、その学びは生きがいになりえません。
プレカリアートという概念が照らすのは、個別の職場問題ではなく、社会全体の価値配分の歪みです。ティティ・バタチャリヤ(パデュー大学、2017年)が編集した論文集『Social Reproduction Theory』は、育児・家事・感情労働といったケア実践が、資本主義経済の「社会的再生産(social reproduction)」——労働力を日々・世代を超えて再び生み出す営み——を支えていると論じました。市場で価格がつく財を生産する労働は可視化されますが、その生産者を育て、癒し、次世代を育てる労働は不可視のまま低く評価されます。保育士の仕事はまさにこの構造の中心に位置しています。子どもを育てることは、将来の労働力を育てることであり、社会そのものを再生産することです。にもかかわらず、その対価が市場原理の外に置かれ続けてきたのは、保育が「愛情」や「使命感」という非経済的な言語で語られることで、賃金交渉の対象から外されてきたからです。
社会的再生産という視点に立てば、保育士の学びを「処遇改善の手段」として設計することの限界が見えてきます。学びが生きがいになるためには、それが外部から課される義務ではなく、自分の実践を深める内発的な探求として経験される必要があります。フランコ・ビフォ・ベラルディ(2005年)は、情報・感情を中核とする現代の「認知資本主義(cognitive capitalism)」において、精神的労働が資本に包摂されるほど、労働者の創造性と喜びは搾取の対象になると指摘しました。保育士の「子どもの育ちへの気づき」や「実践の省察」もまた、制度の枠に収められたとき、生きがいではなく義務になります。では、どうすれば学びは生きがいに戻るのか。鍵は、学びの内容・ペース・仲間を保育士自身が選べる「自律性の回復」にあります。研修を修了証のためではなく、同僚と問いを共有し、子どもの姿を語り合う時間として再設計すること。
自律性の回復という視点は、保育士を「与え続ける存在」として固定してきた文化的な問いに行き着きます。書き手がかつて立てた問い——「保育士はケアの贈与を強制される供犠者か」——は、ここで鋭さを増します。供犠者とは、共同体のために自己を差し出す者です。保育士に向けられる「子どもが好きなんでしょう」「使命感があるから続けられる」という言葉は、感情労働の対価を愛情に置き換え、賃金を不問にする文化的装置として機能してきました。しかし、問いを持ち続ける保育士は供犠者ではありません。自分の実践を言語化し、制度の矛盾を可視化し、同僚と探求を共有する保育士は、保育をしながら同時に自分の知を育てる主体です。ウェルビーイングとは、消耗を我慢することではなく、自分が何者であるかを問い続けながら働けることではないでしょうか。その問いを保障する制度設計こそが、保育の質と保育士の人生を同時に豊かにする唯一の道です。