子どもが泣き止まない。抱き方を変え、声のトーンを落とし、視線を合わせ、呼吸を合わせる。その一連の動作に「技術」という言葉を当てる人は、日本社会にどれほどいるでしょうか。保育士の仕事を「誰でもできる」「母性の延長」と見なす認識は、賃金水準に直結します。厚生労働省の2023年賃金構造基本統計調査によれば、保育士の平均月給は全職種平均を約6万円下回ります。この差は偶然ではなく、「愛情でするもの」という社会的刻印が価格を決めている結果です。低賃金は担い手を減らし、保育の質を下げ、子どもを持つことへの不安を高め、出生数をさらに押し下げる。この連鎖を駆動しているのは、財源不足よりも先に、労働の価値をめぐる認識の誤りではないでしょうか。
「誰でもできる」という認識は、どこから来るのでしょうか。フェミニスト人類学が1970年代以降に繰り返し示してきたのは、家庭内で女性が担う育児・家事・感情的なケアが「自然な能力」として読み替えられ、技術としての評価を剥奪されてきたという事実です。技術として可視化されないものには、市場価格がつきません。シルヴィア・フェデリーチとマリアロッサ・ダラ・コスタは1972年の著書『The Power of Women and the Subversion of the Community』で、家事労働が資本主義的生産を下支えしながら賃金体系の外に置かれる構造を「価値の組織的排除」として分析しました。保育士の賃金問題は、この構造の職業化した版です。「母性の延長」という文化的コードが、専門職としての交渉力を削ぎ、低賃金を正当化する論理として機能しています。
技術の不可視化は、保育士個人の問題にとどまりません。ダイアン・エルソンは1979年の論文「労働の価値理論」で、再生産労働(育児・家事・感情ケア)がフォーマルな労働力の価値形成に不可欠でありながら、資本主義的な価値勘定から構造的に排除されることを示しました。つまり、保育という行為が安く買い叩かれるほど、社会全体が支払うべきコストは「未来の世代の質」という形で後払いされるわけです。保育の質が低下すれば、子どもの認知・情動発達に影響し、それは数十年後の労働生産性や医療費として社会に戻ってきます。フェミニスト経済学が「ケア経済」(1992年以降の概念整備)として定式化したのは、まさにこの外部化のメカニズムです。ケア労働を市場が適切に評価しないとき、そのコストは個人の選択——子どもを持たないという選択——として吸収されます。少子化とは、社会的再生産の費用を個人が内面化した結果とも言えます。
ケア経済の外部化は、保育士を志す人材の供給源そのものにも亀裂を入れます。アーリー・ホックシールドは1989年の著書『The Second Shift』で、共働き夫婦においても妻が家事・育児・感情労働の「第二勤務」を担い続ける時間的不平等を実証しました。OECD時間予算調査は、日本の女性が男性より1日平均約3時間多く無償ケア労働を担うことを示しています。この非対称が意味するのは、保育という職業が「家庭でも職場でもケアを担う女性」に依存して成立しているという構造です。低賃金の保育士職は、家庭内でのケア負担が重い女性にとって「他に選択肢がない仕事」として機能してきました。しかしその構造は、女性の高学歴化と職業選択肢の拡大によって崩れつつあります。ケアを安く使い続けることで成立してきたシステムが、担い手の離脱によって初めてその脆弱性を露わにする——保育士不足はその警報です。
警報が鳴っているにもかかわらず、なぜ改革は遅れるのでしょうか。デヴィッド・グレーバーが2018年に提示した「ブルシット・ジョブ」——従事者自身が社会的意味を感じられない仕事——という概念は、逆説的な形で保育士問題を照らします。保育士は「意味のある仕事」の典型です。しかし、グレーバーが指摘したように、現代資本主義では社会的意義の高い仕事ほど賃金が低く、意義の薄い管理・金融業務ほど高い報酬を得る傾向があります。「やりがいがあるから続けられる」という言説は、低賃金の正当化に転用されます。社会的再生産理論(マルクス主義フェミニズムの系譜、バタチャーリャら1970年代以降)が分析するように、ケア労働の「意味」は市場価値を代替するのではなく、市場価値の欠如を覆い隠す機能を果たしてきました。やりがいという内発的動機を盾に、外的報酬の議論を封じる構造——これが保育士の賃金交渉を困難にしてきた文化的メカニズムです。
文化的メカニズムを変えるには、まず「何が技術か」という認識の書き換えが必要です。教育人類学が1960年代以降に示してきたように、学びと社会化は学校という制度の外でも、家庭・コミュニティ・ケアの場で常に行われています。保育士が日々行う「泣き止まない子どもの状態を読む」「複数の子どもの情動を同時に調整する」「発達の異変を早期に察知する」という行為は、訓練なしには成立しない高度な観察・判断・介入の技術です。これを「母性」や「天性」に帰属させることは、技術の存在を否定することと同じです。AI時代の人的資本論(コリネック, 2024, NBER Working Paper No.32980)が示すように、AI代替困難な能力として対人感情調整・身体的ケア・文脈依存的判断が注目されています。皮肉なことに、保育士が何十年も担ってきた能力が、AI時代にこそ「希少な人的資本」として再評価される可能性があります。