朝、目が覚めてから最初に手が伸びるのはスマホだ。コーヒーをいつものカップに注ぎ、いつものアプリを開き、気づけば30分が過ぎている。「何となく」「いつも通り」——そう言いながら、私たちは本当に何かを選んでいるのだろうか。選んでいる感覚はある。しかしその感覚こそが、最も巧妙な錯覚かもしれない。判断しているようで判断していない、その微細なズレを正面から見つめるところから、「自分ゴト起点」の話は始まる。
朝の動線を思い返してほしい。スマホを手に取り、ニュースを流し読みし、誰かのコメントに反応し、コーヒーを飲み終えた頃には「今日も忙しくなりそうだ」という気分が出来上がっている。その一連の動作の中で、自分が意識的に下した判断はいくつあったか。おそらくほとんどない。米テキサス大学のウェンディ・ウッドらが2002年に発表した研究では、人が「自由に選んでいる」と感じる日常行動の約43%が前日と同じ場所・同じ時間帯に繰り返される習慣的行動だと判明している。「たまたま」の大半は、実は反復だった。
「何となく」という日本語には、決断を宙吊りにしたまま行為する感覚が凝縮されている。禅の無為や「場の空気」への同調として語られてきたこの感覚は、しかし個人の気まぐれではない。仏ソシオロジスト、ピエール・ブルデューは社会的条件が身体に刻まれ「自然な選択」に見える傾向——ハビトゥス(Habitus)——として、この構造を解剖した。家庭環境・学校・職場という場(フィールド)が身体に沈殿し、意識を迂回して行動を方向づける。「たまたま選んだ」と感じるとき、私たちはすでに社会的に製造された無意識の中にいる。
神経科学はさらに踏み込む。米ワシントン大学のマーカス・ライクルが2001年にPNASで発表した研究は、外部課題がない「ぼんやり」状態に活性化するデフォルトモードネットワーク(DMN)を発見した。DMNは自己参照的思考・将来想像・社会的推論を担う、いわば「内なる対話の回路」だ。ところが驚くべきことに、スマホをテーブルに置くだけで——画面を見ていなくても——認知容量と流動性知能が有意に低下するという。ウォードらが2017年に実証したこの発見は、「使わなければ大丈夫」という常識を根底から覆す。デバイスの存在そのものが、自己判断の回路を侵食している。
では、どこから取り戻すか。フランスの哲学者ポール・リクールは『他者としての自己自身』(1990年)の中で、人は固定した実体ではなく、自分の行為と経験を時間的に物語ることで自己を形成すると論じた——これを「物語的自己同一性(Narrative Identity)」と呼ぶ。「たまたま」の経験も、事後的に語り直されることで自己の一部になる。試してほしいのは小さな介入だ。今日の選択をひとつ取り上げ、「なぜ私はそれを選んだのか」を3行で書いてみる。アリストテレスが「フロネーシス(実践的知恵)」と呼んだ状況判断力は、こうした反復的な自己観察の中で育つ。
「1人10色」の自己を病と見る必要はない。英社会学者アンソニー・ギデンズは1991年に、後期近代において自己は伝統的ガイドラインを失い、絶えず自己物語を更新する「再帰的プロジェクト」になったと論じた。米社会心理学者ケネス・ガーゲンが同年に描いた「飽和した自己(The Saturated Self)」——情報過多によって自己の核が希薄化する状態——は、スマホ時代を30年先取りした診断だ。問題は多色性ではなく、その色をアルゴリズムが塗り替えていることにある。自己を問い直す再帰性こそが「自分ゴト起点」の哲学的実体であり、流動性と自己物語の核は矛盾しない。
「自分ゴト起点」とは、完全な自律を目指すことではない。ルーマンの偶発性論が示すように、「たまたま」は必然でも不可能でもない——それは意味を与えられるのを待っている出来事だ。スマホを捨てることが答えではなく、流された後に「なぜ私はそれを選んだのか」と問い直す一瞬を取り戻すことが核心である。その問いを立てた瞬間、10色の自己は外部から塗られた色ではなく、自分が語り直した物語の色を帯びる。「たまたま」は、問いを持った人間の手の中で、偶然から選択へと変貌する。