朝、高層ビルのエレベーターに乗り込む。蛍光灯の白い光、空調の均一な温度、ガラス越しに見える空。その空間に何時間いても、土の匂いも、風の向きも、鳥の声も届かない。それが「学び」と「働き」の標準的な舞台になって久しい。大学進学率が上がるほど都市への人口集中が進み、自然との接触時間が削られていく。この相関は偶然ではない。近代の高等教育は、知識を「どこでも通用する普遍的なもの」にするために、知識が生まれた土地・身体・生態系から意図的に切り離してきた。その設計思想そのものが、私たちを地球から遠ざける構造になっていたとしたら、どうだろう。
森の中で何かを学んだ記憶は、いつまでも身体に残る。葉の裏に虫の卵を見つけた瞬間、川の流れが岩の形を変えていく様子、雨上がりの土の匂い。それらは「情報」ではなく「経験」として神経に刻まれる。ところが近代の高等教育は、教室・テキスト・試験という三点セットで知識を「脱文脈化」してきた。知識を生んだ土地から切り離し、誰でも・どこでも・いつでも適用できる形に圧縮する。その効率は高い。しかし何かが抜け落ちる。その「何か」こそが、人間が地球の一部であるという感覚だ。
ポタワトミ族の植物学者ロビン・ウォール・キマラー(米ニューヨーク州立大学)は2013年の著作『Braiding Sweetgrass』の中で、西洋科学が植物を「資源」として対象化するのに対し、先住民の知識体系は植物を「贈り物を持つ存在」として関係的に認識すると述べた。観察する者と観察される者が互いに影響し合うという認識論は、近代大学が前提とする「知る主体(人間)と知られる客体(自然)の分離」とは根本的に異なる。高等教育が自然から人を遠ざける理由の一つは、この認識論的な設計にある。学ぶほど、自然を「外側のもの」として扱うよう訓練されていく。
その訓練の代償は、身体に現れる。環境心理学者レイチェル・カプランとスティーブン・カプラン(米ミシガン大学)が提唱した注意回復理論(Attention Restoration Theory)によれば、自然環境への接触は方向性注意の疲労を回復させ、認知機能と情動調整を再起動する。都市の高密度な人工環境はその回復を妨げる。さらに進化生物学者E・O・ウィルソンが1984年に提唱した生物親和性仮説(Biophilia Hypothesis)は、人間が生命・自然システムへの親和傾向を進化的に持つことを示した。高等教育が人工環境に人を閉じ込めることは、138億年の進化が形成した認知・情動システムに反する行為だ。
では、どこから変えられるか。「場所に根ざした教育(Place-based Education)」という概念がある。地域の生態系・文化・歴史を学習の中心に置き直す教育哲学だ。教室の外に出て、地元の川の水質を測り、里山の植生を記録し、農家の知恵を聞く。そこで得られる知識は「普遍的」ではないかもしれないが、土地と身体と問いが一体になっている。小さな実践として、今日の昼休みに舗装されていない地面を10分歩くことを試してほしい。靴底越しに伝わる地面の凹凸が、自分が地球の表面に立っていることを思い出させる。
環境教育学者デイヴィッド・オー(米オーバリン大学)は1994年の著作『Earth in Mind』の中で、「現代の高等教育は問題を解決する人材を育てているのではなく、問題を生産する人材を育てている」と書いた。高学歴者ほど都市に集まり、エネルギーを大量消費し、自然資本を換金する仕事に就く。その知性が、気候変動・生物多様性の喪失・土壌劣化を加速させてきた。学ぶことと壊すことが同じ回路につながっているとすれば、教育の目的そのものを問い直さなければならない。知識の量ではなく、地球との関係性の質を育てる教育へ。
高等教育が「自然からの離脱」を卒業証書とともに授与してきたとすれば、その設計を逆転させることが次の文明の課題だ。賢くなるほど地球に近づく教育は、SF ではない。それはすでに世界各地の先住民知識体系の中に、数千年の実績として存在している。問うべきは「都市か自然か」ではなく、「どんな知性を育てるか」だ。