学びを「楽しい」という言葉で語るとき、教育はすでにその倫理性の一部を失っている。付箋と拍手に埋め尽くされた教室に漂う、あの特有の「寝ている者がいない」という名の全能感。知識の学習は「退屈」と言わんばかりである。しかし、その熱狂の冷めた後に残る空虚さは、熱気と知識の定着が全く別の次元に属していることを告げている。教育を快楽原則や有用性へと還元し、こどもを市場社会へと早産させる現代の風潮。その「楽しさ」という名の暴力に抗うために、私たちは今一度、校門と塀が守るべき「不透明な静寂」の意味を問い直さねばならない。対話という名の「盛り上がり」が、知の孤独な格闘を覆い隠してはいないだろうか。
授業中に眠る生徒がいないことを「成功」と呼ぶ教室が増えた。付箋を貼り、発表し、拍手する——その場の熱量は本物に見える。だが「楽しかった」という感想は、知識が身についたという証拠ではない。「楽しい」という感覚は、多くの場合、理解の深さではなく「分かったつもり」という全能感の別名に過ぎない。認知科学的な「保持率」などという数字以前の問題だ。学問という名の崖に爪を立て、己の無知に絶望しながら一歩ずつ登る苦闘を「楽しさ」という言葉でコーティングすることは、真理に対する不作法である。「アクティブ」な「ラーニング」とは、そんなものなのか。寝ていないだけの熱狂は、知的な格闘から逃避するための共同幻想に他ならない。
近代学校が「塀」を持つのには理由がある。生物学者アドルフ・ポルトマンは1944年、人間が他の哺乳類より著しく未熟な状態で生まれる「生理的早産」を論じた。馬は生後数時間で立つが、人間の新生児は一年近く歩けない。この長い依存期間こそが、文化・言語・知識、つまり「社会」を吸収する基盤となる。学校の境界線は管理装置ではなく、市場社会の「今すぐ役立て」という時間軸からこどもを保護する、延長された社会的子宮だ。カントは1803年の『教育論』で「人間は教育によってのみ人間になる」と書いた。学校の塀は、この命題を物理的に具現化した境界線である。
アーレントは1954年の論文「教育の危機」(後に『過去と未来の間』所収)で、教育を「古いものを新しい世代に手渡す保守的行為」と定義した。教師の役割は「世界の保護者」であり、こどもを既存世界から切り離して「自由」にすることは、むしろこどもを無防備な状態に放置することだと論じた。さらにアーレントはアイヒマン裁判から無思考(thoughtlessness)概念を導出した。行為の意味を問わずに命令を実行する凡庸な悪——満足度・意欲・主体性という指標で教育を測る行為は、この無思考の教育版である。評価者は結果を問わず、指標の達成のみを追う。この指標追求は、人格未完成な「こども」を、あらかじめ定義された測定可能なデータへと還元する暴力である。無思考とは、他者の不透明さを直視せず、システムが用意した「満足度」や「主体性」というラベルに安住する態度のことだ。満足しているか、有用か。そんな問いを「こども」に投げかけること自体が、彼らの未熟さを保護すべき大人の側の責任放棄である。
教育社会学者の本田由紀が「ハイパー・メリトクラシー」と呼ぶ病理がある。「意欲」「主体性」「コミュニケーション能力」といった評価軸は、一見民主的に見えて、家庭の文化資本をそのまま能力差として読み替える装置だ。ペーパーテストは訓練と時間でゲームのルールを学べる——そして育ちのよさはマークシートに黒い塗り潰し方には表出しない——が、「意欲の高さ」「面談の態度」「振る舞い(behavior)」などは、家庭環境という「運」を直接反映する。E・D・ハーシュの文化的リテラシー論が示すように、共有された知識基盤なき対話は「声の多さ」に過ぎない。例えば、一冊の名著を付箋もスマホも持たず二時間読んでみる。その静寂の中にこそ、安易な対話では決して到達できない、知識の「層」が積み上がる。
そもそも系統的知識には厳格な「層」がある。高等教育における必修授業のカリキュラムにおいて、経済学3を理解するには経済学2が、その前には経済学1が必要だ。さらに遡れば、一見「社会」から遠く無用に見える国語や算数の基礎が、すべての知の屋台骨となっている。この系統的な積み上げは、「興味」や「有用性」という市場の誘惑から最も遠い、孤独な作業である。一冊の名著を付箋もスマホも持たず——つまり対話というアウトプットを禁じ、「アクティブ」でない状態で——二時間読み通す静寂は、単なる「苦行」ではない。そこで著者から受け取る未知のロジックが身体化され、世界が再記述される瞬間の知的な興奮は、本来、寝ていられないほど「楽しい」ものだ。この内面的な火花こそが、文化資本の壁を越えて他者と対等に現れるための、「共通土台」となる。
この「共通土台」としての系統的知識を習得した者だけが、対話の価値と限界を正確に批判できる。かつては階級の高いものだけにそれが許されたが、近現代における平等のために「学校教育」は始まった。何の役にも立たない——ようにその時は思える——「退屈」という名の不透明な時間を耐え抜くこと。それだけが、他者を安易な手段として扱わず、予測不能な「Action(活動/行為)」を共に始める(出生 natality)ための、最低限の作法を身体に刻み込む。それは「準備された偶発性」とも言える対話を可能にするための、唯一の通路ではないだろうか。教育の目的は日本教育基本法第一条が定める通り「人格の完成」であり、それは快楽原則への抵抗を内面化した主体の形成——それが「社会」人であろう——を意味する。教育者が安易な快楽を供するエンターテイナーであることを拒み、知の奥深さを説く無愛想で倫理的な門番であり続けるとき、退屈という贈り物は、はじめて次の世代に手渡されるであろう。