沖縄南部のある御嶽(ウタキ)の前に立つと、足が止まる。石灰岩の隙間から滲み出る湿った空気、老木の根が地面を割って伸びる感触、木漏れ日が落ちる角度——身体が先に、ここが「ただの土地ではない」と知る。言葉より速く、その場所は人に何かを告げる。ところが今、沖縄南部のある聖地に新しいヴィラが建設されるという話が広まり、反対署名が集まり始めている。対話の機会が設けられないまま、土地は買った人のものになるのか。あの場所はどうなるのか——その問いを、ここから一緒に考えたい。
御嶽は、沖縄の宗教的・社会的秩序の要として機能してきた場所だ。ノロ(祝女)と呼ばれる女性司祭が管理し、コミュニティの祭祀・農耕・漁労の暦がその場所と結びついていた。土地と物語は分離不可能なものとして存在し、特定の個人が「所有」するという発想自体が馴染まなかった。ところが琉球王国の解体、米軍統治下での土地強制収用、本土復帰後の資本流入という歴史的非対称性を経て、沖縄の土地所有権は何度も塗り替えられてきた。「頑張った人が土地を手に入れた」という自己責任の物語は、この歴史的文脈では成立しない。
人類学者アルトゥーロ・エスコバル(コロンビア大学)は2001年、「場所に根ざした実践(place-based practices)」がグローバル資本による開発の前で「場所の抹消(place-erasure)」として機能することを示した。ヴィラ建設は経済的取引であると同時に、ある存在様式の消去として読める。さらにフィリップ・デスコラ(コレージュ・ド・フランス)の存在論的転回を補助線にすると、開発推進側の「土地=資源(ナチュラリズム)」と地域住民の「土地=関係的存在(アニミズム的)」という断絶は、単なる価値観の差ではなく、世界の構成原理そのものの差である。これは翻訳では埋まらない。
驚くべきことに、聖地の保護は「文化的感傷」ではなく、科学的に測定可能な生態系サービスの保全でもある。ギャーネットら(2018年、Nature Sustainability)は、世界の先住民管理地域(ICCA)が国立公園に匹敵する生物多様性保全効果を持つことを定量的に実証した。沖縄南部の御嶽の多くは琉球石灰岩の固有種生息地であり、水源地として機能している。聖地を守ることは、生態系を守ることと重なっている。開発の経済便益計算がこの価値を体系的に無視しているとすれば、その計算式自体が間違っている。文化論と生態学は、ここで同じ結論に到達する。
では、今日から何ができるか。一つの入り口は、FPIC(自由意思による事前の十分な情報に基づく同意)という問いを自分の言葉で問い直すことだ。開発計画の情報公開を求めるパブリックコメントへの参加、ヘリテージ影響評価(HIA)の実施を地域住民が要求できることを知ること——制度は使われなければ存在しないも同然だ。世界各地では、コミュニティベース観光(CBT)という「違うゲームのルール」を書く試みが続いている。地域住民が観光の設計・運営・収益配分に主体的に関与するとき、文化的持続性と経済的持続性は両立しうる。そのモデルは、すでに存在する。
政治哲学者ナンシー・フレイザー(ニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ)は、正義の実現には再分配(経済的不平等の是正)・承認(文化的差異の尊重)・代表(意思決定への参加)の三次元が必要だと論じた。沖縄の開発問題では、この三つがすべて欠けている。土地売買の意思決定過程に地域住民や聖地の管理者が参加できない構造的排除こそが、問題の核心だ。エリノア・オストロム(インディアナ大学)のコモンズ設計原則は、聖地を「誰かのもの」でも「みんなのもの」でもなく「関係のもの」として制度設計できる可能性を示す。同じテーブルにつく前に、テーブルの形と誰が議長かを問い直す必要がある。
土地の所有権が法的に一人の手に渡っても、その土地が持つ意味の所有権は移転しない。物語は、登記簿に載らない。聖地は滅びないかもしれないが、聖地を必要とする共同体が滅びるとき、意味は宙吊りになる——それは消去ではなく、より静かな形の喪失だ。あなたは今、どのゲームに参加しているか。そしてそのゲームのルールを、誰が書いたか。