赴任して最初の春、声を荒げても微動だにしない生徒を前に、ベテラン教員が静かに言った。「昔なら一発で済んだんだがな」。その言葉の重さを、当時の私は正確に受け取れていなかった。体罰が禁じられた現場に残ったのは、禁じられた手段の代わりに機能する制度ではなく、ただ途方に暮れた教員の沈黙だった。この沈黙こそが、「体罰は悪か」という問いの本当の出発点である。善悪の話をする前に、私たちは問い直さなければならない——何が奪われ、何が補われなかったのかを。
教壇に立って年を重ねるほど、生徒の「変化」を肌で感じる瞬間が増える。情報機器を手にした生徒は教員の言葉を即座に検索し、「それ、法的に問題ありますよね」と返してくる。知識の非対称性という、かつて教員が持っていた権威の根拠は静かに崩れた。しかし権威が崩れた後に何が来たかといえば、対話でも信頼でもなく、多くの場合は疲弊だった。教員は言葉で制せず、力も使えず、制度も機能しない三重の空白の中に立たされている。
近代学校制度が成立した19世紀以降、規律の統治技術は「身体への直接的強制」から「内面化された自己規律」へと転換してきた。日本では1947年の学校教育法(現11条)が体罰を明示的に禁止したが、現場の実践規範の転換は制度より数十年遅れた。重要なのは、この転換が単なる法的変化ではなく、権威の正当性基盤そのものの組み替えを意味したという点である。「力による服従」が消えた後、何が服従の根拠となるかを、制度は一度も正面から答えなかった。
哲学者ネル・ノディングス(Nel Noddings、スタンフォード大学)は1984年の著作『Caring』で、道徳的行為の根拠を抽象的原理ではなく「ケアする者とケアされる者の具体的な関係性」に置いた。教員と生徒の関係を「応答性(responsiveness)」と「受容(receptivity)」で捉え直すこの視点は、体罰問題を倫理的善悪の二項対立から解放する。体罰が壊すのは骨ではなく関係性であり、関係性が壊れた教育はもはや教育ではない。ノディングスの問いは今も現場の核心を突いている。
ここで教員採用という問いが浮上する。ケアの倫理に基づく指導を実践できる教員とはどのような人物か、そしてそれを採用試験でいかに見極めるかという問題である。現在の採用試験は教科知識・論文・集団討議が中心だが、「関係性を構築する能力」や「感情的応答性」を測る尺度は極めて薄い。メンターとして生徒に寄り添う資質を問う構造化面接や、ロールプレイ型の場面指導評価を採用プロセスに組み込むことが、制度設計の次の課題として浮かび上がる。
社会学者エミール・デュルケーム(Émile Durkheim)は1925年の『道徳教育論』で「規律は道徳の第一要素である」と断言した。しかし彼が想定した規律は恐怖による服従ではなく、集団への帰属意識から自発的に生まれる自己制御だった。体罰が機能したように見えた時代、それは実は規律ではなく恐怖の管理だったのかもしれない。出席停止・懲戒制度が教育委員会の前例主義によって機能不全に陥っている現状は、デュルケームが夢見た「道徳的共同体としての学校」の空洞化を示している。
体罰は悪である。しかしその悪は、教員個人の暴力性に帰着するものではない。体罰が消えた後に代替手段を設計しなかった制度の悪であり、ケアの能力を測らずに教員を採用し続けてきた選抜システムの悪である。疲弊した教員を生み出しているのは、手を上げる個人ではなく、手を上げざるをえない状況を放置してきた構造だ。問い直すべきは教員の倫理ではなく、教員を孤立させる制度の設計思想そのものである。