ある朝、会議室に十数人が集まり、新しい中期経営計画を議論していた。ファシリテーターが何気なく投げた一言——「そもそも、この会社は何のために存在するのですか」——に、部屋が静まり返った。誰もが口を開きかけ、そして閉じた。売上目標でも、ミッションステートメントでもなく、存在の根拠を問われたとき、会社という装置は突然、透明になる。その沈黙の中に、今の時代が抱える問いのすべてが凝縮されていた。技術と社会情勢と自然環境の前提が同時に揺らぐ多極化の時代に、会社とは何者なのか。その問いから逃げ続けることが、奪い合いを再生産する。
哲学者ユク・ホイ(Yuk Hui、香港城市大学)は2016年の著作『技術と時間の問い——宇宙技術論』で、「技術は一つではない」と宣言した。ハイデガーが描いた近代技術の一元的支配に抗い、道・器・勢という中国哲学の概念装置を用いて、技術が文化的・宇宙論的文脈に応じた複数の形式をとりうることを示したのだ。この洞察を会社論に転用すれば、会社もまた株主利益最大化という単一の資本主義的形式に収斂する必然はない。会社の形式は、問いを立てる者の文化と宇宙論によって、複数でありうる。
会社の起源を辿ると、その本来の姿が浮かぶ。17世紀の東インド会社は、国家が単独では担えない遠洋貿易のリスクを社会的に分散する装置として生まれた。株式会社制度とは、もともと「一人では背負えない不確実性を、複数の主体が関係の束として引き受ける仕組み」だった。ヘーゲルは『法の哲学』(1820年)で、市民社会を家族と国家の間に位置する「人倫(Sittlichkeit)」の結節点として描いた。会社はその結節点に生きる倫理的共同体として構想されていた。多極化が進む今、この原点への問い直しは、制度設計の思想的基盤として再び切実な意味を帯びる。
経済学者ロナルド・コース(Ronald Coase)は1937年に「なぜ会社は存在するか」を取引費用の論理で解いた。しかしその問いは「会社は何をすべきか」には答えない。クリス・アージリス(Chris Argyris)が1978年に提示したダブルループ学習は、より根本的な問いを開く。シングルループ学習が既存ルール内で誤りを修正するのに対し、ダブルループ学習はルールそのものを問い直す。「考える会社」とは、制度の前提を反省的に更新できる組織だ。ここで自然科学が補助線を引く——真核細胞の誕生は競争による勝者の独占ではなく、異種細菌が互いを取り込む共生によって起きた、というリン・マーギュリスの1967年の発見である。
自分の組織で試せる最小の実践がある。週に一度、職位と肩書きを外した対話の場を設けることだ。ドイツのMitbestimmung(共同決定制度)——労働者が監査役会に参加し経営意思決定に関与する仕組み——を持つ企業は、持たない企業と比べて長期的な設備投資率が有意に高く、短期的な株主圧力への耐性を示す(Addison, Schnabel & Wagner, 2004)。「民主的統治はコストだ」という経営常識を、この実証結果は正面から反転させる。意思決定の場に複数の声を持ち込むことは非効率ではなく、会社をステークホルダーの「関係の束」として再構成する最初の一歩となる。
経済学者ケイト・ラワース(Kate Raworth、オックスフォード大学)のドーナツ経済学は、会社の目的を「利潤の最大化」から「社会的基盤の維持と生態的限界の尊重」へと再定義する。マリアナ・マッツカート(Mariana Mazzucato、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)のミッション経済論はさらに踏み込み、会社が解くべき問いを市場ではなく社会が設定すべきだと主張する。この目的転換は一度きりの改革ではない。古生物学者エルドレッジとグールドが1972年に提示した断続平衡説——生物の進化は漸進的ではなく、安定期と急変期を繰り返す——が示すように、会社の変容もまた、共生的統合を繰り返しながら進む非線形のプロセスとして理解すべきだ。
「会社とは何か」という問いへの答えは、会社の外部にある正解を探すことでは得られない。問い続ける実践そのものの中にある。ユク・ホイのコスモロジカル多元主義が示すように、会社の形式が文化的文脈に応じて複数でありうるならば、「正しい会社の形」を独占しようとする試みこそが、新たな奪い合いを生む。奪い合いは、答えを持つ者が持たない者を支配しようとするところから始まる。問い続ける会社だけが、その連鎖を断ち切る制度になりうる。