スーパーの棚に並ぶ豆腐一丁を手に取るとき、その白さに何かを感じることはないでしょうか。産地表示の豆の名前は読むのに、製造者の顔を探すことはほとんどない。農家の笑顔がパッケージに印刷された野菜の隣で、豆腐の製造ラインに立つ人の名前は、どこにも書かれていません。この非対称は偶然ではありません。私たちの社会が「食の本物らしさ」について持つ象徴的な地図が、農業者を可視の側に、製造現場を不可視の側に、構造的に振り分けてきたからです。その地図がいま、現場の担い手不足という形で、現実に亀裂を走らせています。
スーパーで一丁68円の豆腐を手に取る瞬間、そこには途方もない連鎖が圧縮されています。大豆を砕き、にがりを加え、温度と湿度を管理しながらタンパク質を凝固させる工程は、工場の製造ラインで何千回と繰り返されてきました。しかしその現場に立つ人の顔は、消費者の想像の外にある。「生産者の顔が見える」という言葉が食の文脈で使われるとき、そこに現れるのはほぼ例外なく農業者であり、加工・製造に従事する人々ではない。この非対称は偶然ではなく、構造的に作られたものです。
文化人類学者メアリー・ダグラスは1966年の著作『Purity and Danger』で、社会的分類体系が「正しい場所にないもの」を象徴的に排除する論理を解明しました。食の文脈では、農業者は「自然・本物・純粋」の象徴として正しい場所に置かれ、工業的製造ラインは「均質・非人格的・大量生産」として、食の純粋性の外側に分類されます。さらに1986年にイゴール・コピトフが論じた商品化論は、物が商品として流通する瞬間に製造過程の社会関係が消去される「脱人格化」を指摘しました。豆腐が棚に並ぶとき、製造者の顔は象徴的に消去されているのです。
この象徴的排除は、現場の数字に直接対応しています。農水省の調査によれば、食料品製造業の有効求人倍率は2017年度時点で2.78倍と全産業平均1.54倍の約1.8倍に達し、最も人手不足が深刻な職種は「商品生産(単純作業)」で76.4%の事業者が不足を訴えます。しかしこの「単純作業」という分類こそが問題の核心です。実際には、個別具体的なノウハウの塊でもあるものが外部には認識されず「単純作業」と言う言葉に押し込められている。そして、その個別技能の不可視性が、後継者育成への投資を阻んできました。
労働経済学者デイヴィッド・ウェイルが2014年に論じた「フィッシャード・ワークプレイス」論は、大企業が製造を下請け・派遣へ移転することで雇用の不安定化と技能継承の断絶が加速する構造を描きました。食品製造業の60歳以上比率は21%と全産業平均を上回り、この層の引退が進む今後10年で、基礎食料品の製造を支えてきた暗黙知が世代間で断絶するリスクが高まっています。一方、若い担い手はストーリーにより脚色された食品へ向かいます。六次産業化政策は意図せず、インフラ的製造業から人材を吸い上げる構造を生み出しているかもしれません。
電気・水道・ガスは社会インフラとして政策的に保護されますが、「安く・安定的に・欠品なく」という同等の機能を担う食品製造業は、市場原理に委ねられてきました。科学技術社会論研究者スーザン・リー・スターは、インフラは「使われるとき透明になり、壊れたときにのみ可視化される」と論じました。一丁60円の豆腐が欠品し、豆腐が高付加価値でドーピングされた高級品ばかりになり、一般的な日本人では月に数回しか食べられない高級品になったとき、そして、身の回りの食品製造品が次々とそうなったとき、初めて私たちはその担い手の存在に気づくのかもしれません。しかしそのときには、製造ラインを支えてきた熟練の身体知はすでに引退し技能継承の窓は閉じ、製造機械をメンテナンスできる会社も廃業しているでしょう。
食の民主性——所得や階層を問わず基礎食料品へのアクセスが保障される状態——は、製造ラインに立つ人々の労働によって日々更新されています。従来の単価を遙かに超える高付加価値商品を称賛する言語は豊富にありますが、一丁60円の豆腐を作り続ける人に誇りを与え、そしてその生産技術の価値を顕在化する言語を、私たちはまだ持っていません。象徴秩序を書き直すことなしに、担い手の可視化は始まらない。食の語り方そのものが、今問われています。