約束をして定期的に週末に会う子どもと、毎日夕食を共にする子どもが、同じ父親をもつ。この非対称な日常は、責任の重さを均等に分配しない。月曜の朝、別居している子の顔を思い浮かべながら、自分は「父親」として何をしているのかと問う瞬間がある。その問いは感情の問題ではないと、書きながら気づいた。重さの正体は、私の弱さではなく、養育という営みがどのように設計されているか——あるいは設計されていないか——という構造的な問いである。子育てとは誰のものか。その問いを解体することから、別の地図が見えてくる。
別居している二人の子と過ごす時間も、同居している一人の子との時間も合わせて特別だ。しかし過ごす時間の量は違う。この非対称な日常のなかで、責任を「重く感じる」瞬間は、むしろ別居の子と離れているときに訪れる。会えないことへの後ろめたさではなく、関与の回路が物理的に細くなっていることへの、ある種の構造的な違和感として。その感覚を個人の感情として処理することに、私はずっと抵抗を感じてきた。
「子育ては母親のもの」「社会のもの」という所有格の語り口は、いつ生まれたのか。文化人類学者デイヴィッド・ランシー(ユタ州立大学)は2015年の著書で、世界の養育実践を比較し、子どもを「守るべき存在」として親が密着して育てるモデルは、近代西洋核家族に特有の歴史的構築物であると論じた。多くの社会では、養育は親族・近隣・共同体に分散されており、「誰のもの」という問い自体が特定の時代と制度の産物である。
人類進化史を辿ると、この分散は偶然ではない。進化人類学者サラ・ブラファー・ハーディ(カリフォルニア大学デービス校)は、ヒトの乳児がチンパンジーと異なり、生後数週間で見知らぬ他者にも微笑みかけることに注目した。チンパンジーの乳児は生物学的母親以外にほぼ視線を向けない。ハーディはこの差異を、複数の養育者を前提とした進化的適応として解釈する。さらに、父親が乳児の世話をした直後にテストステロン値が低下しオキシトシン値が上昇することが、Gettler らの2011年の実証研究で確かめられた。父が育てることは、生物学的にも「設計されている」。
「子の人生は子のもの」という直観を、哲学者ヴァージニア・ヘルド(ニューヨーク市立大学)は倫理学の言葉で裏打ちする。2006年の著書でヘルドは、親子関係は契約ではなく関係の先行性によって成立すると論じた。子は同意する前にすでに関係の中にあり、親は義務を選んだのではなく関係に呼び出されている。ケアとは義務の履行でも自己犠牲でもなく、ニーズへの応答性(responsiveness to needs)である。別居という物理的分離があっても、応答する関係は維持できる。毎日一行の記録、子への短い問いかけ——小さな応答が関係を生きたままにする。
責任を重く感じることは、個人の弱さではない。複数の養育者による分担を前提とした進化的設計を、少人数の親が独力で担う現代構造の矛盾が、身体に届いているシグナルである。比較福祉国家論のエスピン=アンデルセン(ポンペウ・ファブラ大学)が論じた「脱家族化」の視点から見れば、日本は養育責任を家族内部に閉じ込めたまま制度的支援を欠く「家族主義レジーム」の典型であり、別居親の責任感が制度的サポートなしに個人へ集中する構造は、個人の問題ではなく設計の失敗である。重さを感じる感受性は、その失敗への問いを開く入口になる。
育てることの目標は、育てられなくなることにある。この逆説——ケアの自己廃棄性——は、親という役割の本質を言い当てている。「誰のものか」という問いに答えを与えるのではなく、問いを解体することで、子育ては所有から応答へ、義務から関係へと読み替えられる。子の人生が子のものであるとき、親は条件を整える者として残る。その役割は、別居していても、離れていても、変わらない。 子どもたちと過ごす時間によって、形成された私自身の中に残る愛着、愛おしさとともに。