会議が終わった後、誰かが片付けを手伝ってくれた。頼んだわけでも、報酬があるわけでもない。それでも場はなぜか温かくなり、次の仕事がすこし軽くなった気がした。この小さな出来事を「善意」や「親切」と呼んで済ませることもできる。しかし人類学者デヴィッド・グレーバーは、こうした行為こそが人間社会の経済的基盤を何千年も前から支えてきた原理だと言う。交換ではなく、贈与。等価性ではなく、非対称な返礼の連鎖。組織の中でこの原理が循環しはじめるとき、何かが根本から変わる。その変化を、今日の経営論は「人的資本」や「非財務指標」という言葉でかろうじて捉えようとしているが、本当に問われているのは組織の存在論的な前提そのものではないだろうか。
1924年、マルセル・モースは太平洋の島々やアメリカ先住民の儀礼を丹念に読み解き、「贈与には三つの義務がある」と記した。与えること、受け取ること、そして返すこと。この三義務は等価交換を前提としない。返礼は時間差を持ち、量も質も非対称だ。モースが驚いたのは、この非対称な循環こそが社会的紐帯を生み、共同体を持続させる原動力だったという事実だった。交換は関係を清算するが、贈与は関係を継続させる。組織論の文脈でこの差異を真剣に受け止めるとき、私たちは「等価な報酬と等価な労働」という資本主義的契約の外側に、もうひとつの組織原理が存在することに気づく。
グレーバーは2011年の著書『Debt: The First 5,000 Years』で、人類の経済史において市場交換は贈与と負債の関係に後から登場したものだと論じた。「人間経済(human economy)」と彼が呼ぶ原初の経済では、人を物象化せず、関係そのものを資源とする贈与的ロジックが支配的だった。マーシャル・サーリンズも1972年の『Stone Age Economics』で、狩猟採集社会が交換効率ではなく贈与的充足によって豊かさを実現していたと示した。この人類学的知見は挑発的な問いを投げかける。私たちが「進歩」と呼んできた等価交換原理の組織は、実は人間の社会性にとって後発の、そして不自然な形態なのではないか。
組織開発(OD:Organization Development)の領域では、この問いが実践的な形をとりはじめている。心理的安全性の研究で知られる米ハーバード大学のエイミー・エドモンドソンは、高機能チームの特徴として「失敗を開示できる関係性」を挙げるが、その関係性の基盤には脆弱性の贈与がある。弱さを差し出すことで相手の弱さを引き出す、この非対称な開示の連鎖こそが信頼を生む。組織開発が「関係性の質」を変えることから始めるのは、まさに贈与的ロジックを組織の土台に埋め込む実践に他ならない。研修や対話の場を通じて、メンバーが互いに「与え合う」文化を意図的に育てることが、贈与的組織への入口となる。
では、贈与的な組織文化はどう設計できるのか。エリノア・オストロムは2009年のノーベル経済学賞講演で、コモンズが持続するための条件として「境界の明確化」「地域条件に合ったルール」「集合的選択の場」などを挙げた。組織をコモンズとして設計するとは、メンバーが知識・時間・経験を贈与し合う場のルールを、外部から押しつけるのではなく、内側から共同で作ることを意味する。実践的には、評価制度に「他者への貢献」を明示的に組み込むこと、知識共有の場を義務ではなく自発的贈与として設けること、そして失敗の開示を称える文化を育てることが、その第一歩になる。
日本の経営学者・伊丹敬之は「場のマネジメント」論の中で、組織における「場」を「人々が情報的相互作用を行うときの共有された文脈」と定義し、その質が組織の創造性を左右すると論じた。贈与的組織とは、まさにこの「場」の質を贈与の論理で耕すことだ。非財務指標や人的資本経営が測ろうとしているのは、この場の豊かさ、すなわち蓄積された贈与の総量ではないか。アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチは、人が「何をできるか」を福祉の基準とするが、組織内の贈与的関係こそがケイパビリティを拡張する土壌となる。見えないものを可視化しようとする現代の経営潮流は、贈与の痕跡を追う試みとして読み直せる。
贈与は純粋な利他性ではない。モースが示したように、贈与には権力と負債が宿る。組織内で「贈与」が強制・同調圧力・見えない搾取に転化するリスクは現実だ。しかし、その危うさを知った上でなお、贈与的ロジックを組織の中心に置こうとする選択は、単なる理想論ではない。人類が市場交換より先に贈与で社会を作ってきたという事実は、交換原理の組織が「自然」で贈与原理の組織が「例外」だという常識を静かに反転させる。組織が生きるとは、等価な取引が積み重なることではなく、非対称な贈与が循環し続けることだ。