子どもが熱を出した朝、「今日は休みます」と送ったメッセージへの返信が、既読のまま止まっている。謝罪の言葉を重ねながら、ふと気づく。この気まずさは、職場が「取引の場」になりきってしまったことの証拠ではないか。かつて地域には、子どもを預け合い、食べ物を分け合う互酬の網の目があった。それが都市化と長時間労働によって解体された今、人々が一日の大半を過ごす職場こそ、その回路を再建できる唯一の場かもしれない。制度を増やすことではなく、贈与の論理を組織の骨格に埋め直すこと——そこから問いを立て直してみたい。
フランスの社会人類学者マルセル・モースは1925年、『贈与論』の中で人間社会の根幹に「与え・受け取り・返す」という三重の義務があることを示した。贈与は慈善でも等価交換でもなく、関係そのものを生み出す行為である。職場でランチをおすそ分けする、残業中の同僚に一言かける、子育ての悩みを打ち明ける——これらは成果指標に現れないが、組織の中に互酬の回路を編んでいる。モースが描いた贈与の論理は、地域共助の設計図であると同時に、職場共助の設計図でもある。
人類学者デヴィッド・グレーバーは2011年の『負債論』で「人間経済(human economy)」という概念を提示した。人々を可換な生産単位として扱う市場経済とは異なり、人間経済は固有の存在として互いを扱う回路である。成果主義とKPI管理が浸透した職場では、関係性が道具的になり、互酬の土台が侵食される。経済社会学者カール・ポランニーが指摘した「市場による社会の脱埋め込み」は、地域だけでなく職場でも静かに進行してきた。共助の欠如は制度の問題ではなく、関係性の質の問題である。
ハーバード・ビジネス・スクールのエイミー・エドモンドソンは1999年、チームの心理的安全性が学習行動と業績を予測することを実証した。しかし心理的安全性の概念が広まった後も、現場の「失敗できない重圧」は消えていない。理由は明快で、制度として導入された安全性は、関係性から生まれる安全性の代替にならないからだ。政治哲学者ジョアン・トロントが1993年に提唱したケア倫理は、配慮・責任・応答性・能力の四次元を組織設計に組み込むことを求める。ケアが「余剰」でなく「中核機能」として位置づけられるとき、初めて重圧は構造的に解消される。
では、何から始めればよいか。社会人類学者マリリン・ストラザーンが1992年に描いた「部分的つながり(partial connections)」という概念が手がかりになる。完全な同一性でも完全な他者性でもない、重なりながらもズレている関係性——それが職場の実態であり、共助の土台になりうる質でもある。具体的には、業務外の文脈を一つ持ち込むことから始められる。子育ての話をする、失敗談を先に開示する、ランチを一人で食べない。制度ではなく行為の積み重ねが、互酬の回路を少しずつ復元する。
職場を「選択的拡大家族」として機能させるには、共同記憶の蓄積が欠かせない。血縁でも地縁でもなく、共に失敗し、共に助け合った記憶が「家族性」を生む。社会学者ニック・ブルーム(スタンフォード大学)の2022年のリモートワーク研究は、物理的共在が互酬的関係の密度に有意な影響を与えることを示した。週に数日の対面が、偶発的な互酬行動の頻度を高める。テクノロジーで代替できない部分がここにある。場を共にする時間こそが、贈与の回路に血を通わせる条件である。
「ウェルビーイング経営」という言葉が飛び交う今、問うべきは制度の数ではない。職場が人間経済の場として機能しているか——つまり、そこにいる人が固有の存在として扱われているかどうかだ。地域でつくれなかった共助のインフラは、人々がすでに集まり、共通の記憶を持ちうる職場の中にこそ、再建の余地がある。贈与の回路を取り戻した組織は、社員のウェルビーイングを高めるだけでなく、その波紋を地域へと広げていく。職場は、社会の最後の共助インフラになれる。