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Vol.001 / 2026.05.23 (Sat) / No.0247
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他者を優先するたびに、自分が世界に根を張っていく

かどわき
2026.06.04READ 7 MIN
ORIGINAL QUESTION — この記事のはじまり (問い・背景)
テーマ
生きることと働くこと
問い・背景
お仕事をしているとさまざまな方々と関わることになる。 そもそも仕事においては、自分自身のこだわりや価値観も大事だが、仕事をする相手や関係者、受益者の方々の思いや目的を大事にしたいと考えている。そうすると、気付かないうちに自分の中で優先順位をつけてしまい、結果として優先されなかったひとやことを傷つけてしまうことも往々にして起きてしまっている、という自覚もある。 一方で、仕事をすることで、喜んでくれることや、より良い未来につながっているのではないか、という希望を感じる瞬間もある。 そのどちらもが、私を起点とした出来事を私から見た視点で、私なりに理解しているに過ぎない、ということも感じている。 全ては自分自身に関する瑣末な問題に過ぎず、それがどうであろうと世の中には大した影響を与えやしないのに、どうしてもその感じ方に一喜一憂してしまう自分がいる。 であるからこそ、極力ひとさまに対しては、自分が起こした出来事について、悲しませたり、苛立たせたり、傷つけたりしないように生きていきたいとは思うものの、先に述べた通り、生きていくために仕事をし、その仕事において優先順位を下げてしまう関わり方も出てきてしまう。 最終的には、誰とも関わらずにひっそりと生きて、ひっそりと生を終えていくのが良いのだろうなと思うけれど、それはそれでこれまでに関わってきてくれて、応援したり期待したり前向きに捉えてきてくれた方々に対して失礼だし、何より産み育ててくれた両親に顔向けができないので、極力前向きに、世の中の役に立ちながら生きていたいとも思う。 さて、私は何を問いたくて文字をここに置いたのだろうか。 生きることと働くことは、どれほど密接なのか、切り離すことはできないのだろうか、を問いたいのかもしれないな、と思った。

打ち合わせの終わり際、ある人の表情がわずかに曇るのを見た。議題を押し進めるために、その人の話を途中で切り上げてしまっていた。会議室を出てから、胃の底が静かに沈んでいくような感触が残った。謝ることもできず、次の予定へと足を向けながら、「あの瞬間に何かが断ち切られた」という感覚だけが歩調に混じり込んでいた。生きることと働くことは、こういう場面で不意に一致する。傷つけることへの恐れと、それでも前に進まなければならない必然とが、同じ一歩の中に同居している。この緊張を哲学と神経科学と人類学はどう読み解くのか、問いを携えて散文を始めたい。

仕事の現場で誰かを後回しにした瞬間、身体は正直に反応する。言葉が出なくなる静寂、視線をどこに置けばいいかわからなくなる感覚。それは比喩ではない。米カリフォルニア大学ロサンゼルス校の神経科学者ナオミ・アイゼンバーガーは2003年、社会的排除が身体的な痛みとまったく同じ神経回路——背側前帯状皮質——を活性化することをfMRIで実証した。他者を優先できなかった罪悪感は、文字通り「痛い」のである。優先順位をつけることは仕事の必然だが、その必然の中に、人と人の間を断ち切る瞬間が生まれている。

「働くこと」を生の手段と見るか、生そのものと見るかという問いは古代から続いている。アリストテレスはポイエーシス(制作的行為)とプラクシス(実践的行為)を区別し、前者は目的への手段、後者はそれ自体が充実した生であると論じた。マルクスは疎外された労働を人間性の剥奪として告発し、一方でフランスの社会人類学者マルセル・モースは1925年の贈与論において、働くことを市場取引ではなく「与える・受け取る・返す」という互酬の三重の義務として描いた。誰かを傷つけてしまうという感覚は、孤立した失敗ではなく、この互酬の網の目が断ち切られる瞬間への鋭敏な感受性として読み解ける。

フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)は1934年、思想家でありながら自ら工場労働者として働き、その経験を『工場日記』に記した。彼女が見出したのは、労働が魂を「根こぎ」にする構造であり、それに抗う唯一の倫理として「注意(Attention)」という概念を提示した。注意とは、他者の苦しみへの純粋な集中力であり、自己の判断や期待を一時停止して相手の現実に向き合う行為である。「相手の思いや目的を大事にしたい」という衝動は道徳的建前ではなく、ヴェイユが言う意味での注意の実践であり、身体に刻まれた社会的感受性の発露である。

「他者のために働く」ことと「自分が消耗する」ことは、必然的に結びついているわけではない。米ペンシルベニア大学ウォートン校の組織心理学者アダム・グラントは、他者志向的動機を持つ人を「自己犠牲的な与え手」と「自己も大切にする与え手」に分け、後者の方が生産性・満足度ともに持続可能であることを実証した。試してみてほしい実践がある。一日の終わりに「今日、誰の何を受け取ったか」を一文だけ書く。これは自己中心でも自己犠牲でもなく、互酬の網の目を可視化する行為であり、ヴェイユの「注意」を自分自身にも向ける小さな調整である。

「誰とも関わらずひっそりと生を終えたい」という引力と、「関わってくれた人への責任」という引力の間で揺れることは、実存哲学が「被投性(Geworfenheit)」と「投企(Entwurf)」の緊張と呼ぶ構造に重なる。生まれた文脈——両親、関係者、期待——と自ら選ぶ生き方の間に、人は常に宙吊りになっている。ヴェイユは晩年の著作『根をもつこと(L'Enracinement, 1949)』で、この緊張を「切り離し」ではなく「根づき」の問題として再定式化した。孤独への引力は逃避ではなく、傷つけることへの恐れから来る誠実さであり、その誠実さ自体がすでに他者との関係に深く根ざしている。

「自分の行為は世の中に大した影響を与えない」という感覚は、一見謙虚に見えて、実は現在の関係から目を逸らす方向に働く。ハーバード大学のマシュー・キリングスワースとダニエル・ギルバートは2010年、人は仕事中の約47%の時間、今していることとは別のことを考えており、その「心のさまよい」が幸福感を有意に低下させることを実証した。反芻は世界を変えない。今この目の前の人に注意を向けること——それがヴェイユの言う根づきであり、働くことが生きることに触れる場所である。傷つけながらも根を張り続けることの中に、生の充実は静かに宿っている。

DEEPER/学術的観点から
2003年、米カリフォルニア大学ロサンゼルス校のナオミ・アイゼンバーガーらは『Science』誌上で、社会的排除が身体的痛みと同一の神経回路——背側前帯状皮質と右腹外側前頭前野——を活性化することをfMRIで示した(Eisenberger et al., Science 302: 290-292)。「誰かを傷つけた」という感覚は文化的な罪悪感ではなく、進化的に保存された社会的痛みの神経基盤を持つ。アダム・グラントの研究は「他者のために働く動機」を持続可能にする条件として自己への配慮を挙げており、この二つの知見は呼応する。傷つきを感じる能力と自分を守る能力は対立ではなく、同じ社会的感受性の両面である。
  • SIGNAL 01

    社会的排除を経験した被験者の脳では、身体的痛みと同一の背側前帯状皮質が活性化した。他者を後回しにした罪悪感が「痛い」のは神経科学的事実である。Eisenberger, N. I. et al. (2003). Science, 302(5643): 290-292.

  • SIGNAL 02

    2,250人を対象とした経験サンプリング研究で、人は起きている時間の約47%を今の行動以外のことに費やしており、その「心のさまよい」は幸福感を有意に低下させた。Killingsworth, M. A. & Gilbert, D. T. (2010). Science, 330(6006): 932.

  • SIGNAL 03

    グラントの調査では、他者志向的動機を持ちつつ自己の利益も大切にする「Otherish Giver」は、自己犠牲的な与え手より生産性・燃え尽き耐性ともに高い結果を示した。Grant, A. M. (2013). Give and Take. Viking.

  • SIGNAL 04

    モースは1925年、北米・メラネシア・古代ローマにわたる事例から「与える・受け取る・返す」という互酬の三重義務が社会的紐帯の基盤であることを論証した。Mauss, M. (1925). L'Année Sociologique, nouvelle série, 1: 30-186.

KEY REFERENCE/参考文献
  • Eisenberger, N. I., Lieberman, M. D., & Williams, K. D. (2003). "Does rejection hurt? An fMRI study of social exclusion." Science, 302(5643): 290-292. DOI: 10.1126/science.1098779

    社会的排除が身体的痛みと同一の神経回路を活性化することを実証した、社会的痛み研究の嚆矢となる論文。

  • Killingsworth, M. A., & Gilbert, D. T. (2010). "A wandering mind is an unhappy mind." Science, 330(6006): 932. DOI: 10.1126/science.1192439

    経験サンプリング法により、心のさまよいが幸福感を低下させることを大規模に実証した自然科学的知見。

  • Mauss, M. (1925). "Essai sur le don." L'Année Sociologique, nouvelle série, 1: 30-186.

    贈与・互酬・負債の三重義務が社会的紐帯の基盤であることを論証した、社会人類学の古典的一次文献。

  • Weil, S. (1952). The Need for Roots (L'Enracinement). Trans. A. F. Wills. Routledge.

    人間が共同体・仕事・伝統に根ざすことで初めて生の充実が得られると論じた、ヴェイユ晩年の哲学的主著。

  • Weil, S. (1951). "Reflections on the Right Use of School Studies with a View to the Love of God." In Waiting for God. Trans. E. Craufurd. Putnam.

    「注意(Attention)」を他者の苦しみへの純粋な集中力として定義し、労働倫理の核心に据えたヴェイユの思想的一次文献。

  • Grant, A. M. (2013). Give and Take: A Revolutionary Approach to Success. Viking.

    他者志向的動機を持ちつつ自己も大切にする「Otherish Giver」が最も持続可能な働き手であることを実証した社会科学的研究。

  • Aristotle. Nicomachean Ethics. (Trans. T. Irwin, 1999. Hackett Publishing.)

    ポイエーシス(制作)とプラクシス(実践)の区別を通じ、労働と生の目的論的関係を論じた哲学的古典。

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暮らしは、働くことの外側にあった

引っ越しの荷解きが終わらないうちに、隣の老農夫が田の水口を直してくれた。何かお礼をと思ったが、財布を開く場面ではなかった。「また頼むよ」と言い残して彼は去った。その背中を見送りながら、自分がずっと「価値のやり取りには価格が必要だ」という前提の中で生きてきたことに気づいた。東京では仕事と生活は別々の部屋に収まっていた。稼ぐことが安定をもたらし、消費が豊かさを証明した。しかしここでは、田に水を張ることと、隣人に声をかけることと、季節の変わり目に集まることが、ひとつながりの行為として流れていた。その流れに名前をつけるとしたら、「働くこと」ではなく「営むこと」と呼ぶほかなかった。

2026.05.28

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