引っ越しの荷解きが終わらないうちに、隣の老農夫が田の水口を直してくれた。何かお礼をと思ったが、財布を開く場面ではなかった。「また頼むよ」と言い残して彼は去った。その背中を見送りながら、自分がずっと「価値のやり取りには価格が必要だ」という前提の中で生きてきたことに気づいた。東京では仕事と生活は別々の部屋に収まっていた。稼ぐことが安定をもたらし、消費が豊かさを証明した。しかしここでは、田に水を張ることと、隣人に声をかけることと、季節の変わり目に集まることが、ひとつながりの行為として流れていた。その流れに名前をつけるとしたら、「働くこと」ではなく「営むこと」と呼ぶほかなかった。
水口を直してもらった翌朝、自分の手は何もしていないのに、田に水が満ちていた。お礼の言葉を探したが、彼はすでに次の畑にいた。その空白——贈られたのに返せない、あの宙吊りの感覚——が、市場的交換とはまったく異なる関係の論理が存在することを、理屈より先に体に教えた。貨幣は等価交換を前提とするが、ここで流通しているのは等価でない何かだった。関係そのものが、やり取りの媒体になっていた。
「働くこと」と「暮らすこと」が別々の概念になったのは、歴史的にはごく最近のことだ。近代以前の農村では、田植えも子育ても祭りの準備も、「いとなみ」という一語で括られる連続した行為だった。産業化と賃労働の普及が「職場」と「家庭」を空間的・時間的に切り離し、価値を生む行為と価値を生まない行為の間に線を引いた。里山に今も残る「結(ゆい)」——田植えや茅葺きを互いに手伝い合う慣行——は、その分離以前の論理が生きた形で続いている稀な実例である。
英国アバディーン大学の社会人類学者ティム・インゴルドは1993年、「タスクスケープ(taskscape)」という概念を提唱した。田起こし・水路掃除・薪割りは孤立した作業ではなく、季節・隣人・生き物との関係が折り重なった時間的景観だという。人は環境を外側から設計するのではなく、歩き・耕し・観察する身体的関与を通じて土地の知識を生成する。カナダ・マニトバ大学のフィクレット・バーケスが「在来生態知識(TEK)」と呼ぶ、世代を超えた観察と実践の蓄積が、里山の持続性を支える構造的基盤となっている。
今日できる一歩として、野菜一束を隣家に持っていくことを勧めたい。オーストラリア国立大学の経済人類学者クリス・グレゴリーは1982年の著作『Gifts and Commodities』で、贈り物は市場価格ゼロでありながら、関係の信用残高を積み上げると論じた。商品は交換されると関係が終わるが、贈り物は関係を開いたままにする。土の中でも同じことが起きている。リチャード・バードゲットらが2014年に『Nature』誌で示したように、耕すという身体的行為は土壌微生物群集の多様性を維持・更新する。手渡しの行為は、社会という土壌を耕す行為でもある。
ここで直感に反する事実を一つ挙げる。「人が使わなければ自然は守られる」という保全の常識がある。しかし大窪寿美夫ら(2010年)が『Biological Conservation』誌で示したように、日本の里山では農業的管理が続く土地ほど在来種の種数が多い。人の関与が生態系を豊かにするという逆説だ。ロバート・パットナムの社会関係資本論が示す「結束型」資本の強みと閉鎖性を踏まえれば、移住者という「よそ者性」は摩擦であると同時に、集落に新陳代謝をもたらす橋渡し型の力でもある。暮らしの変容とは、個人の成長ではなく、関係の生態系の更新だ。
「安定した仕事・稼ぐ力・投資」という問いの立て方自体が、すでに特定の価値観の内側にある。里山の暮らしが示すのは、貨幣を媒介しない循環こそが土地と共同体の再生産を可能にしてきたという事実だ。あなたが今いる場所で、何を耕しているか——その問いを、ここに手渡す。