「自分らしく」——英会話、脱毛、婚活。それらと同じくらい、どこからともなく「こうあるべき」と押し付けられる生き方。問われれば問われるほど、「自分らしさ」の意味がぼやけて、わからなくなる。剥けば剥くほど、「み」がなくなっていく。 大学4年の6月、内定の可能性がついにゼロになった。「人生終わった」、そう思った。そこからわたしの、「自分らしく生きる」ことを突き詰める日々がはじまった。それから6年経ったいま、ようやく、「自分らしさ」は内側に宿っているものではなく、関係のなかで事後的に構成されていく——最初からどこかにあるなんてものではないのだと腑に落ちた。そう気づくまでには、13カ国100名以上の語りを聴き、研究という方法でしつこく向き合うことが、わたしには必要だった。
面接室の椅子に座るたびに、奇妙な感覚があった。「自分らしさ」を問われるほど、それが遠ざかっていく。履歴書に書いた言葉は自分のものなのに、声に出すと借り物のように響く。神戸の小学校で学年の三分の一が中学受験をする環境で育ち、「弁える」ことを覚えた身体には、外部の評価軸がすでに染み込んでいた。誰かのものさしで測られ続けた自己像は、いざ「あなた自身は?」と問われたとき、答えを持っていなかった。内定ゼロという結果は、その空白を数字で突きつけてきた。
「自分らしく生きる」という問い自体が、近代西洋に固有の問いである——そう気づいたのは、人類学の文献を読み始めてからだった。フランスの人類学者マルセル・モースは1938年の論考「人格の概念」で、「自己」という観念がローマの仮面(persona)から法的人格、キリスト教的魂を経て近代的個人へと変容した歴史的産物であることを示した。さらに英国の人類学者マリリン・ストラザーンは、人が「分割不可能(individual)」な単位であるという西洋的前提を解体し、人は関係の束として「分割可能(dividual)」に構成されると論じた。「自分を探す」という行為そのものが、ある文化・時代にしか通じない問いなのだ。
ケネス・ガーゲンは2009年の著作『Relational Being』で、自己は関係に先行して存在するのではなく、対話と関係の中で事後的に構成されると論じた。ロム・ハレらが提唱した「ポジショニング理論」は、会話の中で人々が互いに役割を動的に割り当て合うプロセスを分析し、「自分らしさ」が対話のリアルタイムで交渉・生成されることを示した。神経科学もこれを支持する。アニル・セスとカール・フリストンは2016年、脳が予測誤差を最小化するために「自己」という一貫したモデルを能動的に構成する——自己意識は「制御された幻覚」であると論じた。固定した「本当の自分」は、どこにも存在しない。
では、どうすればいいか。「自分らしさを探す」のをやめ、「いま誰とどんな関係のなかにいるか」を観察することから始めてみてください。具体的には、最近、自分が生き生きと話せた会話・場面・関係を三つ書き出してみる。ポール・リクールが「ナラティブ的アイデンティティ」と呼んだように、自己は語ることによって事後的に浮かび上がる。十三カ国百三名のライフストーリーインタビューを重ねるなかで見えてきたのも、同じことだった。語り手たちは「自分とは何か」を知っていたから話したのではなく、話すことで「自分」を発見していた。関係が先にあり、語りがあり、自己はそのあとに姿を現す。
内定ゼロで、消極的な理由で文系の修士課程に進んだ経験は、当時は「逸脱」に感じられた。でも、当時の先輩に言われて今でも覚えているのは、「こんな守られた環境で、逸脱なんて言えないでしょ?」という指摘。ごもっとも。いまもむかしも、なんて勘違い野郎なんだ。死ぬ時には、すこしはまともと思えるようになっているのだろうか? ダン・マカダムス(ノースウェスタン大学)が2001年に論じたように、人は自分の人生を「汚辱から救済へ」というナラティブの型で再構成することで、アイデンティティの連続性を保つ。逸脱が特異性へと転換されるのは、内側の努力によってではなく、関係と時代の文脈が変わることによる。チャールズ・テイラーは1991年の著作『The Ethics of Authenticity』で、真正性の追求は共同体的文脈なしには成立しないと論じた。「自分らしさの需要性」は、関係と時代の交差点で決まる。それは個人の資質ではなく、文脈の産物だ。
「自分らしさはどこにあるか」という問いを手放したとき、別の問いが浮かんだ。「どんな関係のなかで、どんな自分が生まれているか」。自己を探す旅は終わらないが、関係を耕す実践は今日から始められる。三十歳という節目を前に、わたしはまだ道半ばにいる。ただ一つ確かなのは、「自分らしさ」は発見するものではなく、関係のなかで絶えず書き直されていくものだということだ。あなたの「自分らしさ」も、いま隣にいる誰かとの対話のなかで、すでに書かれはじめている。