本文へスキップ
Vol.001 / 2026.05.23 (Sat) / No.0247
問いを、記事に変える共創メディア。
Where questions become essays.
RITE ESSAY/メンバーの記事

人間は、世界を消費するのではなく、世界をつくる存在だった

廣瀬理子日本たばこ産業株式会社
2026.05.31READ 7 MIN
ORIGINAL QUESTION — この記事のはじまり (問い・背景)
テーマ
新しいラグジュアリーの問い
問い・背景
# 新しいラグジュアリーの問い 旧いラグジュアリーが、価格・排他性・所有・洗練された緊張によって豊かさを証明してきたのだとすれば、新しいラグジュアリーは、どのような実感によって立ち上がるのだろうか。 それは、他者との差異を可視化するための記号ではなく、身体が世界に対して開かれ直す感覚ではないか。 階層化された趣味や作法に自分を適応させることではなく、自然光、風、土、子どもの声、他の生き物、土地や季節の気配と共にいられる「和み」ではないか。 所有することではなく、生命圏の循環に参加していると感じられることではないか。 近代の消費社会は、豊かさを「手に入れるもの」として発展させてきた。しかし、人間の健康が地球の健康から切り離せないように、人間の豊かさもまた、自然や他の生き物、土地や気候との関係から切り離せないのではないか。 だとすれば、問いはこうなる。 人間が、生き物として世界とつながっている実感を取り戻すこと。 その実感を、私たちは新しいラグジュアリーと呼ぶことができるだろうか。

朝、窓を開けると光が床に斜めに差し込み、どこかで鳥が鳴いている。その瞬間、何かが緩む。高級ホテルのベッドでも、新車の革シートでもなく、ただ朝の空気と光と音が重なった一瞬に、身体が「ここにいる」と応答する。これは贅沢なのか、それとも贅沢とは別の何かなのか。ラグジュアリーをめぐる問いは今、その問い自体を更新しなければならない地点に来ている。所有することで証明してきた豊かさの文法が、もはや身体の実感と噛み合わなくなっているからだ。

1899年、ソースタイン・ヴェブレンは『有閑階級の理論』で、ラグジュアリーとは他者への富の可視的展示であると喝破した。消費は欲求の充足ではなく、社会的地位の証明として機能する。そこに続いたピエール・ブルデューの分析は、さらに鋭い。ラグジュアリーは物だけでなく、味覚・所作・美意識まで階層化し、「正しい感覚」を持つ者と持たない者を分断する。豊かさは感覚の内側にまで侵入し、身体経験そのものが競争の場になった。

南カリフォルニア大学のエリザベス・カーリッド=ハルケットは2017年、高学歴・高所得層が可視的消費から「目に見えない消費」へ移行していることを統計的に示した。ブランドバッグではなく、オーガニック食品・教育・静寂な時間への支出が増える。しかしこの転換は、ラグジュアリーの文法を根本的に変えたのではない。証明の形式が変わっただけで、豊かさを「手に入れるもの」として扱う構造は温存されている。問いはより深い場所にある。

哲学者ハンナ・アーレントは1958年、『人間の条件』で消費社会の本質を解剖した。消費とは使えば消えるものを循環させる行為であり、それ自体は「共通世界」を生まない。世界を持続させるのは、複数の人間が共に参照できる永続的なものを作り出す「制作」と、他者と共に行為する「活動」だ。ラグジュアリーが消費の論理の中にある限り、それは世界を豊かにするのではなく、消費しながら消えていく。アーレントの問いは、豊かさの意味を根底から問い直す。

人類学者ティム・インゴルドは2000年の主著『The Perception of the Environment』で、人間は環境を外側から所有する主体ではなく、生きることを通じて世界に織り込まれていく存在だと論じた。彼の「dwelling perspective(居住の観点)」によれば、身体と場所は相互に形成し合い、季節・労働・感覚のリズムが人を土地に縫い合わせる。和辻哲郎が1935年に『風土』で示した洞察も重なる。人間の存在様式は気候・地形・生態系との応答関係の中で形成される、と。所有者ではなく、風土の中の生き物として人間を捉え直すとき、ラグジュアリーの定義は変わる。

文化人類学者アナ・チンは2015年の著作でマツタケを軸に、人間と他の生き物が絡み合いながら世界を生成する「アセンブリッジ(集合体)」の論理を記述した。人間だけで完結する豊かさはありえない。プラネタリー・ヘルスの知見が示すように、人間の健康は土壌微生物・水循環・生物多様性と不可分に結びついている。生命圏の循環に参加することは、利他的な選択ではなく、人間が生き物として世界に存在するための条件そのものだ。この視点から見ると、自然との接触は「癒し」ではなく、存在の回復だ。

新しいラグジュアリーとは、消費の頂点ではなく、世界の生成に加わる贅沢だ。ヴェブレンが描いた「証明としての消費」でもなく、カーリッド=ハルケットが記録した「内面化された証明」でもない。アーレントの言葉を借りれば、共通世界を持続させる行為への参加こそが、人間にしかできない贅沢だ。朝の光に身体が応答するとき、人は消費者ではなく、世界をつくる存在として立っている。

DEEPER/学術的観点から
2000年、英アバディーン大学のティム・インゴルドが提示した「taskscape(課業景観)」概念は、社会科学と自然科学の境界を横断する。人間の知覚と行為は、環境から切り離された主体が対象に働きかけるのではなく、生態系のリズムと身体が共鳴しながら共に形成されるプロセスだとインゴルドは論じた。これを工学的に裏付けたのが、自然接触と生理応答の実証研究だ。イリノイ大学のミン・クオらは、緑地接触がNK細胞活性の上昇とコルチゾール低下をもたらすことを示している。「生命圏とのつながりの実感」は主観的感覚にとどまらず、免疫・神経系に刻まれる生物学的事実だ。ラグジュアリーが身体の問題である根拠がここにある。
  • SIGNAL 01

    米国の高所得世帯は2004〜2014年の10年間で、可視的ラグジュアリー財への支出を減らし、教育・健康・経験への「見えない消費」を増加させた。ラグジュアリーの脱物質化は統計的に確認されている。(Currid-Halkett, 2017, Princeton University Press)

  • SIGNAL 02

    自然環境への20〜30分の接触で唾液コルチゾール濃度が平均21.3%低下することが確認されている。身体は生命圏への参加を、ストレス応答系の緩和として記録する。(Hunter et al., 2019, Frontiers in Psychology 10: 722)

  • SIGNAL 03

    世界の先住民・地域コミュニティは地球陸地面積の約22%を管理しながら、生物多様性の約80%を保全している。生命圏との参加的関係が、所有的管理より高い生態系保全効果を持つ実証的証拠だ。(Garnett et al., 2018, Nature Sustainability 1(7): 369–374)

  • SIGNAL 04

    バイオフィリック要素(自然光・植物・水・有機的形態)を取り込んだオフィス設計は、従業員の生産性を平均8%、ウェルビーイング指標を13%向上させた。空間の贅沢が生命圏との接触に再定義されつつある。(Browning et al., 2012, Terrapin Bright Green)

KEY REFERENCE/参考文献
  • Arendt, H. (1958). The Human Condition. University of Chicago Press.

    消費・制作・活動の三区分により、消費社会が「共通世界」を生成しない構造を哲学的に解剖した古典。

  • Ingold, T. (2000). The Perception of the Environment: Essays on Livelihood, Dwelling and Skill. Routledge.

    dwelling perspectiveとtaskscape概念を通じ、人間が環境の外にいる所有者ではなく世界に織り込まれる存在であることを人類学的に論じた主著。

  • Garnett, S. T., Burgess, N. D., Fa, J. E., Fernández-Llamazares, Á., Molnár, Z., Robinson, C. J., Watson, J. E. M., et al. (2018). "A spatial overview of the global importance of Indigenous lands for conservation." Nature Sustainability, 1(7): 369–374. DOI: 10.1038/s41893-018-0100-6

    先住民管理地が生物多様性の約80%を保全しているという実証データを提示し、参加的・関係的な土地との関わりが所有的管理を上回る保全効果を持つことを示す。

  • Hunter, M. R., Gillespie, B. W., & Chen, S. Y. (2019). "Urban Nature Experiences Reduce Stress in the Context of Daily Life Based on Salivary Biomarkers." Frontiers in Psychology, 10: 722. DOI: 10.3389/fpsyg.2019.00722

    都市環境における自然接触20〜30分でコルチゾールが平均21.3%低下することを唾液バイオマーカーで実証し、生命圏への参加が生物学的実体を持つことを示す。

  • Tsing, A. L. (2015). The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins. Princeton University Press.

    マツタケを軸に人間と他の生き物が絡み合いながら世界を生成するアセンブリッジの論理を記述し、人間だけで完結しない豊かさの概念的基盤を提供する。

  • Currid-Halkett, E. (2017). The Sum of Small Things: A Theory of the Aspirational Class. Princeton University Press.

    高所得層が可視的消費から教育・健康・時間への「見えない消費」へ移行するアスピレーショナル・クラス現象を統計的に実証した社会学的研究。レビュー扱い。

  • Veblen, T. (1899). The Theory of the Leisure Class. Macmillan.

    誇示的消費概念の起点となる古典。ラグジュアリーが他者への地位証明として機能する構造を制度経済学的に解剖した。

FOR THE READER WHO FINISHED

読み終わったあなたの問いを、次の記事に。

廣瀬理子 さんの問いに触発されたあなたの問いを送ってください。

※ 「深掘りを問う」は 600 字の深掘り記事を 1 件 30〜60 秒で生成する機能です (探究モード)。 深掘りを問うとは? 使い方ガイドを読む ↗

読者 17 / 訪問者 29 / コメント 0
ABOUT THE AUTHOR/この記事を書いた人
廣瀬理子日本たばこ産業株式会社
MORE FROM AUTHOR/同じ著者の他の記事

新しいラグジュアリーと想像資本の時代

手のひらに乗るほどの石鹸を使い切ったとき、ふと思った。この白い塊はどこから来たのだろう。オリーブの実が絞られた地中海沿岸の丘、灰汁を煮詰めた職人の釜、数週間の熟成を経て切り出された断面。完成品として届いた石鹸は、その来歴をひとかけらも見せない。表面はなめらかで、何も語らない。だが想像力がいちど背後へ向かうと、石鹸はもはや石鹸ではなくなる。それは土地と時間と手が結晶した、ひとつの世界の入口になる。この感覚こそが、これから論じたい「想像資本」の核心である。

2026.06.03

企業は、自然を「外から測る」ことでしか関われないと思い込んでいる

予算会議の画面に映し出された数字を見ながら、ある担当者がつぶやいたとします。「この森林保全プロジェクト、30年後のリターンをどう計上すればいいのか」。問いはもっともです。しかし、その問いが立ち上がった瞬間に、すでに何かが決まっています。森は「測られる対象」になり、企業は「測る主体」として外側に立つ。この図式そのものが、大企業が自然・文化資本と長期で関わることを難しくしている本当の理由かもしれません。数値化の問題ではなく、関わり方の認識論の問題として、この問いを立て直してみます。

2026.06.02

人間は場所から召喚される

旅先の小さな港町で、何の用もないのに同じ路地を三度歩いたことがある。石畳の隙間から潮の匂いが滲み、軒先の鉢植えが午後の光を受けていた。何かを「している」わけではなかった。それでも、帰りたくなかった。あの感覚を言葉にしようとすると、いつも失敗する。「居心地がいい」では足りない。むしろ、その場所に呼ばれていた、と言いたくなる。人間とは何か、という問いに答えようとするとき、私たちはいつも「主体」から始める。考える私、感じる私、選ぶ私。しかし、あの路地で立ち止まったとき、私はまず場所に出会い、その後でようやく「私」になっていた。

2026.05.29
DEEP DIVES/この記事から生まれた深掘り (1)

この記事を読んだ人が立てた問いから、ミラツクの知の基盤とともに生まれた深掘りの記事です。

この記事にコメントしたり、お気に入りに入れたりするには RITE への登録が必要です。

書き手になる →
← フィードへ戻る
CITE THIS · この記事を引用する

本記事は CC BY 4.0 で公開されています。 引用時は著者名と canonical URL を明記してください。

APA
廣瀬理子 (2026). 人間は、世界を消費するのではなく、世界をつくる存在だった. RITE. Retrieved from https://futures.emerging-future.org/rite/articles/ef639f02-1478-4858-bef9-11181f15eadb
Markdown
[廣瀬理子, "人間は、世界を消費するのではなく、世界をつくる存在だった", RITE](https://futures.emerging-future.org/rite/articles/ef639f02-1478-4858-bef9-11181f15eadb) (2026-05-31)
AI 回答 (in-line)
「人間は、世界を消費するのではなく、世界をつくる存在だった」(廣瀬理子, RITE, 2026, https://futures.emerging-future.org/rite/articles/ef639f02-1478-4858-bef9-11181f15eadb)
NEWSLETTER · 週末ごとに、編集部から

今週、誰がどんな問いを書いたのか。

毎週土曜の朝、編集部から週末便を送ります。 新しく公開された問い、響き合った手紙、その週に並んだ星座。 読み手であることもまた、共創の入口です。

配信は 1 クリックでいつでも解除できます (List-Unsubscribe 対応)。
運営: NPO 法人ミラツク / 代表理事 西村勇也
連絡先: info@emerging-future.org / 詳細は 特定商取引法に基づく表記

書き手になる / 問いを立てる無料 / 約 2 分で開始Lv とは?