予算会議の画面に映し出された数字を見ながら、ある担当者がつぶやいたとします。「この森林保全プロジェクト、30年後のリターンをどう計上すればいいのか」。問いはもっともです。しかし、その問いが立ち上がった瞬間に、すでに何かが決まっています。森は「測られる対象」になり、企業は「測る主体」として外側に立つ。この図式そのものが、大企業が自然・文化資本と長期で関わることを難しくしている本当の理由かもしれません。数値化の問題ではなく、関わり方の認識論の問題として、この問いを立て直してみます。
標準的な投資評価では、将来のキャッシュフローを割引率で現在価値に換算します。社会的割引率を3〜5%に設定すると、50年後の便益は現在価値のわずか10〜20%になります。ニコラス・スターン(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)が2006年の気候変動報告書で示したように、割引率の選択は技術的問題ではなく「将来世代の命をどれほど重く見るか」という価値判断です。大企業の予算会議で自然資本投資が通らないのは、計算が間違っているのではなく、計算の前提に埋め込まれた時間哲学が、生態系の時間と根本的に噛み合っていないからです。
では、なぜその時間哲学が「当然」になったのか。コーネル大学のリン・スタウト(2012年)は、株主価値最大化が法的義務であるという通説を批判的に解体しました。それは1970年代以降にミルトン・フリードマンの論説とエージェンシー理論が結合して普及したイデオロギーであり、会社法に明記された義務では決してない。四半期決算・経営者の平均在任5〜7年・株主総会サイクルという時間軸が「自然な経営リズム」として定着したのは、特定の歴史的文脈の産物です。制度的必然ではなく、変更可能な選択であることを確認することが、出口を探す第一歩になります。
しかし制度を変えれば解決するかというと、そうでもありません。人類学者ティム・インゴルド(アバディーン大学)は1990年代から「居住の視点(dwelling perspective)」を展開し、人間と環境の関係を「資源を利用する主体と客体」ではなく「共に生きる実践の網の目」として描き直しました。企業が自然・文化資本を「投資対象」として外側から評価する構図は、まさにインゴルドが批判した客体化の視線です。測定ツールを精緻化しても、測る主体と測られる客体という認識の枠組みが温存される限り、関わり方の本質は変わりません。問題は測れていないことではなく、そもそも測るという行為の前提にあります。
それでも、翻訳の試みは始まっています。2023年に公開されたTNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)フレームワークは、企業の事業拠点と生態系の依存・影響関係を空間的に可視化する手法を提供します。エリノア・オストロム(インディアナ大学)が示したコモンズ論の核心、すなわち「外部から管理するのでも市場に任せるのでもなく、当事者が制度を自治的に設計する」という発想は、企業が地域・生態系と「共同管理者」として関わる制度的想像力の源泉になりえます。測定は入口として有効ですが、それが「管理の正当化」に終わるか「共同実践の言語」になるかは、設計の哲学次第です。
マリアナ・マッツカート(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)のミッション経済学が示すように、長期投資が成立する条件は、収益予測の精度ではなく「何のための企業か」という目的の明確さにあります。コリン・メイヤー(オックスフォード大学)が2018年に論じたように、企業の目的を「利益の最大化」から「問題の解決」へ再定義するとき、自然・文化資本への投資は「コスト」ではなく「目的の実装」になります。パーパス経営が単なるブランディングに終わらない条件は、長期KPIが経営者評価・資本配分・ガバナンス構造に実際に組み込まれているかどうかです。物語だけでは制度は変わりません。
企業が自然・文化資本と長期で関わることができるかという問いへの答えは、「できる、ただし企業が自らを再定義するときに限り」です。投資対象が増えるのではありません。企業が「測る主体」から「共同管理者」へと自己像を書き換えるとき、はじめて自然と文化は経営の内側に入ってきます。それは資本主義の外側へ出ることではなく、企業とは何かという問いそのものを、経営の中心に戻すことです。