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Vol.001 / 2026.05.23 (Sat) / No.0247
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美学は建築を生き延びさせる――遊びの刻印が愛着の条件になる

澤谷由里子NUCB Business School
2026.05.25READ 7 MIN
ORIGINAL QUESTION — この記事のはじまり (問い・背景)
テーマ
建築の美学と責任 ― 遊びから生まれる愛着と、社会に残り続ける人工物の緊張
問い・背景
美学のない建築、一般に人工物は意味をなすのか?建築は、建築家の美学や遊びによって強い個性を与えられ、人々の記憶に残り、愛着の対象となる。一方で、建築は長期にわたり社会の中に存在し続ける人工物であり、予算、制度、維持管理、公共性、利用者の多様な価値観を引き受けなければならない。ザハ・ハディドによる新国立競技場案には明確で強い美学があったが、その突出した表現は予算や世論の中で削がれていった。他方、若い建築家たちが論じるサーキュラーデザインでは、建築を長く使い、更新し、循環させるためには「愛着」が最も重要だとされる。私はここから、愛着とは単に使う中で生まれるものではなく、建築家の美学が社会の中で受け止められ、生き延びた姿ではないかと考えたい。建築家の美学は自己表現にとどまるのか、それとも社会に残り続ける建築の条件となりうるのかを問い直したい。

2015年7月、東京オリンピックに向けて設計されたザハ・ハディドの新国立競技場案が白紙撤回された。流線型の屋根が大空へ弧を描く、あの映像を覚えている方は多いはずだ。予算超過と世論の反発が理由とされたが、私が立ち止まったのは別の問いだった――私たちはあのとき、何を削いだのか。機能は残った。座席数も、アクセスも、競技面積も。削がれたのは、建築家の「遊び」だった。その遊びは贅沢だったのか。それとも、建築が社会に長く生き延びるための、見えない構造条件だったのか。

ザハ・ハディドの競技場案が撤回された夜、SNSには二種類の声が溢れた。「当然だ、予算が現実的でない」という声と、「何か大切なものが失われた」という声。後者を発した人々の多くは、その「何か」を言語化できなかった。それが美学と呼ばれるものだとしても、なぜ美学の喪失がこれほど切実に感じられるのか、問い直されることはほとんどなかった。美学は贅沢か機能か――この問いに、私たちはまだ答えを持っていない。

建築美学をめぐる問いは、1908年にアドルフ・ロースが「装飾と犯罪」を発表した瞬間から、自己表現と社会的条件の間で引き裂かれてきた。ロースは装飾を退廃と断じ、機能こそが美であると宣言した。しかしその後、ル・コルビュジエの機能主義が生んだ画一的な集合住宅群は、住民に愛着を持たれることなく、数十年後に爆破解体された。ヴァルター・ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」(1935年)で論じたアウラ――原作が持つ場所固有の一回性と存在感――は、建築においても同様に機能する。標準化・複製化に抗う個性が、集合的記憶の基盤を作る。

ジョン・デューイは1934年の『経験としての芸術』で、美的経験とは制作者の意図に閉じたものではなく、受け手と環境の相互作用によって事後的に構成されると論じた。建築家の美学は設計図の上では完結しない。建物が社会の中で使われ、記憶され、語られる過程で初めて美学的意味を獲得する。この視点を補強するのが、ライラ・スキャネルとロバート・ギフォードが2010年に発表した場所愛着の三軸モデルだ。愛着の強度は居住年数よりも、物理的環境の美学的・象徴的特性の知覚と相関する。長く使えば愛着が生まれるのではない――美学的刻印が強い場所ほど、短期間でも深い愛着が形成される。

では、美学と建築の長期循環を両立させる実践的条件とは何か。スチュワート・ブランドは1994年の『How Buildings Learn』で、建築をSiteからStuffまで六層に分解するシアリング・レイヤーズ理論を提示した。各層の変化速度は数百年から数日まで異なり、遅い層が速い層を支える。この枠組みでは、建築家の美学的意志はStructure(構造体)とSkin(外皮)に深く刻まれるべきであり、ServicesやSpace planは更新可能に設計することで、美学の核を守りながら時代の変化に応答できる。施主は「美学の核」を発注仕様に明記し、利用者は空間の意図を読み取ることから愛着を始める。

ロベルト・ベルガンティは2009年の『デザイン主導イノベーション』で、真に革新的な設計とはユーザーの既存ニーズに応えることではなく、人々が物事に見出す「意味」そのものを変革することだと論じた。この視点からザハ案の撤回を読み直すと、それは美学の敗北ではない。建築家の美学的ラディカリズムが初めて社会的交渉の場に引き出され、予算・制度・世論という三つの摩擦と本格的に格闘した過程だった。その摩擦こそが、建築の社会的意味を鍛える鍛造炉である。美学が社会的正当性を獲得するためには、制度的補完性――設計の革新性と既存制度の適合条件――を意識的に設計に織り込む必要がある。

美学のない建築は機能するかもしれないが、愛着の種を持たない。愛着のない建築は更新されず、循環せず、やがて廃棄される。とすれば、建築家の遊びと美学は自己表現の贅沢ではなく、建築を社会に長く生き延びさせるための構造的条件だ。ただし「どんな美学でもよい」とは言えない。社会的経験の場に耐え、摩擦を経て意味を獲得できる美学だけが愛着を生む。建築家の個性は社会への拘束であると同時に、社会が未来に手渡せる記憶の形式でもある。

DEEPER/学術的観点から
1984年、テキサス大学のロジャー・ウルリッヒはScience誌に論文を発表した。胆嚢手術後の患者を、窓から自然の景色が見える病室と煉瓦壁しか見えない病室に無作為に配置したところ、前者は鎮痛剤の使用量が統計的に有意に少なく、入院期間が平均約1日短縮された(Ulrich, 1984, Science 224: 420)。建築の美学的質が人間の生理的回復速度を変えるこの発見は、「美学は機能か贅沢か」という二項対立を根底から崩す。社会科学の側でも、ベルガンティが「意味の変革」として定式化したように、建築の美学的特性は経済的価値や社会的信頼の源泉となる。美学は感性の問題にとどまらず、人体と社会制度の両方に作用する工学的変数であり続けている。
  • SIGNAL 01

    術後患者を自然景観が見える病室に配置すると、鎮痛剤使用量が有意に減少し入院期間が平均約1日短縮。建築の美学的質は生理的回復に直接作用する。Ulrich, R. S. (1984). Science, 224(4647): 420-421.

  • SIGNAL 02

    場所愛着の強度は居住年数よりも物理的環境の美学的・象徴的特性の知覚と相関する。短期滞在でも美学的刻印が強い空間では深い愛着が形成される。Scannell, L. & Gifford, R. (2010). Journal of Environmental Psychology, 30(1): 1-10.

  • SIGNAL 03

    注意回復理論では、美学的・自然的環境への曝露が認知的疲労から4〜10分で回復をもたらすと示された。建築の空間質は生産性・意思決定能力にも波及する。Kaplan, S. (1995). Journal of Environmental Psychology, 15(3): 169-182.

  • SIGNAL 04

    シアリング・レイヤーズ理論によれば、建築の構造体は約300年、設備層は約15年のサイクルで変化する。美学の核を遅い層に刻むことで、更新と個性の両立が工学的に可能になる。Brand, S. (1994). How Buildings Learn. Viking.

KEY REFERENCE/参考文献
  • Ulrich, R. S. (1984). "View through a window may influence recovery from surgery." Science, 224(4647): 420-421. DOI: 10.1126/science.6143402

    建築の空間的・美学的質が術後患者の生理的回復速度を変えることを実証した、環境-健康連結研究の起点となるScience掲載原著論文。

  • Scannell, L. & Gifford, R. (2010). "Defining place attachment: A tripartite organizing framework." Journal of Environmental Psychology, 30(1): 1-10. DOI: 10.1016/j.jenvp.2009.09.006

    場所愛着をPerson・Process・Placeの三軸で構造化し、美学的・象徴的環境特性が愛着生成の独立変数として機能することを示した環境心理学の基盤論文。

  • Kaplan, S. (1995). "The restorative benefits of nature: Toward an integrative framework." Journal of Environmental Psychology, 15(3): 169-182. DOI: 10.1016/0272-4944(95)90001-2

    注意回復理論(ART)を提唱し、美学的・自然的環境への曝露が認知的疲労からの回復をもたらすことを示した統合的フレームワーク論文。

  • Dewey, J. (1934). Art as Experience. Minton, Balch & Company.

    美的経験を「完結した経験」として定義し、芸術の価値は制作者の意図ではなく受け手と環境の相互作用によって事後的に構成されると論じたプラグマティズム美学の古典。

  • Brand, S. (1994). How Buildings Learn: What Happens After They're Built. Viking.

    建築をSite〜Stuffの六層に分解するシアリング・レイヤーズ理論を提示し、各層の変化速度の差異が建築の長期的適応性を規定するという工学的フレームワークを確立した著作。

  • Verganti, R. (2009). Design-Driven Innovation: Changing the Rules of Competition by Radically Innovating What Things Mean. Harvard Business Press.

    ユーザーニーズへの応答ではなく製品・建築が担う社会的意味そのものを変革することがデザイン主導イノベーションの核心であると論じた経営学・デザイン論の一次的著作。

  • Benjamin, W. (1935/1969). "The Work of Art in the Age of Mechanical Reproduction." In Illuminations (trans. H. Zohn). Schocken Books.

    複製技術時代における原作のアウラ(場所固有の一回性と存在感)の喪失を論じ、建築の個性が集合的記憶の基盤となる過程を文化批評として定式化した思想史的古典。

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