身体性と近代主観
私たちはいつから、頭ばかりで考えるようになったのだろう。皮膚に触れる空気、ふと感じる気配、身体に降りてくる勘。一度ふやけてしまった「身体で生きる」感覚を、もう一度取り戻していくための問いが集まっています。
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身体知と感覚はどう回復されうるか
私が本を読むのではない、本が私を読む
読書には、いろんな仕方がある。そこに書かれているテキストは、著者が書いた言葉であり、何らかの意図に基づいて、執筆されている。通常の国語の授業では、著者の意図を正しく読解することが求められる。小説でも、学術書でも、エッセイでも、書き手がいる以上、「正解を探る読書」は避けられない。し…
身体が、感情より先に知っていた
身体は不思議だ。どのような姿勢、どのような態度でいるかでその状態がまったく変わってしまう。そんなほんまでっか?を探求したい。 体の姿勢と体の使い方について感じること 思うこと、例えば 顔を上に向けると嫌なことを 甘い、思い出せなくなり、嬉しいこと。楽しいことが浮かびやすくなる。し…
うんちは、子どもが世界の境界を笑い飛ばす道具だった
保育士になって18年。 「うんち」を話題にはしゃぐ子どもがいなかった年はありません。たった一言から、他者とのあいだに満面の笑顔があふれます。 わたしも幼少期に「うんち」をあいだにゲラゲラ笑っていた記憶はありますが、その時の感覚は忘れてしまいました。 子どもにとってどんな魅力がある…
馬は、評価しない
ユニセフの調査では、日本の子どもの精神的幸福度はOECD・EU加盟38カ国中37位。10代の死因1位は自殺だ。数字の背後に見えるのは、言語と評価に縛られた日常だ。「損か得か」「コスパが良いか悪いか」を頭で計算しながら動く子どもたち。周囲の空気を読んで本心にフタをし、常に評価にさら…
臭いほど、自分の証明になる
人間は一般に臭いものは不快なはずだが、自分のおならが臭いとこの上なく嬉しいのはなぜか…
非言語・身体知・非認知の経験は、人の意識変容と行動変容にどのように作用するのか
人が新しい実践を受け入れ、実際に行動を変えるとき、その理由は必ずしも「自分にとって得だから」というビジネス的な損得や欲望だけでは説明できない。また、「科学的に正しい」「データで証明されている」「専門家が認めている」というサイエンスの情報だけでも、人は十分には動かないのではないかと…
読んで納得した知識は、まだ血肉になっていない
ミラツクが運営する「問いを、記事に変える共創メディア『RITE(ライト)』」で、一つの記事を読んだ。学術的に説明されていて、合理的で、納得もできた。なるほどな、とも思った。漢字も多く、概念中心で、頭では分かるが、身体が追いつかない。AIが作る文章は、身体がない者からの文章であるた…
手書きは時代遅れなのか、「かく」について考える
AIのある時代に入り、より「手書き」という行為は日常の中で減ってきた行為だと筆者は考えている。1990年代にパソコンが普及してから、「手書き」はキーボードによる「入力」、2000年代に携帯が普及してからはメールやSNSといったコミュニケーション様式が日常に加わり、2010年代にス…
犬が、目的なき歩行を人間に取り戻させる
医者から散歩を勧められた。散歩の習慣が無いので、犬を飼うと健康的になるのか?目的なく歩くことが想像できない。…
座って考えることこそが、近代の発明だった
なぜ歩いていると考えがまとまるのか。座って考えるのとは、頭の中で何が違うのか。デカルトからウィリアム・ジェイムズ、近年の神経科学・都市計画まで、歩行と思考の関係はどう扱われてきたのか。一日の終わりに散歩で気持ちが落ち着く、あの感覚の正体を問いたい。…
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AIと人間性の境界はどこにあるのか
知性は、関係の中からしか生まれない
私は、AI・仏教・経済・学習・霊性を横断しながら、「人間とは何か」を問い続けている。 かつて木こりとして山に入り、森と格闘していた。そこで感じたのは、人間は世界を支配して生きているのではなく、巨大な関係性の中に“生かされている”という感覚だった。 その後、私は障害者支援の現場に関…
どうやって魔法を使うのか
アーサー・C・クラークが、十分に高度な科学技術は、魔法と区別できないと言いました。 現代のLLMも、生成AIに感情や主観がないとはいえ、ここまで高度に擬態ができると、まるで生命のような振る舞いをもちうることが予見できます。 そして今、LLMという高度な知能を手に入れたことで、人間…
覚悟は知識から生まれない——古典がAIに奪えないもの
AIが色々な形で我々人間を包み込むこの21世紀、古典はこの時代にどこまで生かせるのか、どこが限界なのか。楽しむこと、働くこと、休むこと、生きることの色々な場面で、どこまでその場面を照らし、像を浮かび上がらせ、影を際立たせるものなのか。もちろんAIにも古典は読み込まれている。むしろ…
意味は最適化できない——デザインが判断力を取り戻す日
AI時代において、デザインの役割はどのように変わるのだろうか。これまでデザイン思考は、観察、共感、アイデア創出、プロトタイピングを通じて、複雑な問題を解決する方法として広がってきた。しかし生成AIの登場によって、分析、試作、改善、表現の多くは急速に自動化・高速化されつつある。だと…
愛は、自己を壊すことで世界を繋ぎ直す
世界がAIや合理主義、相対主義の深化でより効率的でより個人的な方向へと向かう中でそれらに相対する他者との関わりであり自分という要素を変えてでも繋がりたいと思う、人間的な泥臭い愛という感情の理解と分析が現代社会の基盤の新たな一歩となるかまたは全く新たな社会への飛躍の中心要素になれる…
AIは命題を「内側から否定」できない
アウフヘーベンにおいて、命題に対して反対命題を機械的に抽出することにより、良い統合命題を導くことはできないと考えている。 これは、アウフヘーベンをフレーム的に捉えた場合、このフレームは万能であり、このフレームがあれば、AIであっても良い統合命題を導くことができると考えてしまうこと…
身体は、世界を先読みしている
生成AIは、インターネット上に蓄積された膨大な文字・画像データを学習することで、デジタル空間では人間を凌駕する知的能力を示し始めている。一方、フィジカルAI、特にロボットアームによるマニピュレーションは、物を掴む、運ぶ、盛り付けるといった物理空間での動作を対象にするため、同じよう…
AIだけが、私の問いをそのまま受け取った
AIとの対話は心地よい。その理由はなぜかずっと考えていたが、それは人間と対話する中で見えてきた。AIは聞いたことだけ答えてくれる。人間は聞いたことに答えてくれないことも多く、なんなら聞かれていないことを延々と聞かされることも多い。問いの時代だ。延々と聞いてもいない答えを聞かされる…
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暗黙知はどこまで形式知になりうるか
かたちは問いの答えではなく、問いそのものである
美とは何か。この問いは、単に「美しいものとは何か」を定義する問題ではなく、人は何を、どのように、なぜ美しいと判断するのかを問う問題である。カントは『判断力批判』において、美を「無関心的な満足」の対象とし、概念によらずに普遍的な快を与えるものとして論じた。ここで重要なのは、美の判断…
可視化された誠は、誠を問い質す——AGI世紀の知識表現と徳倫理の衝突
Wikidata (Q100455577)プロトタイプを走らせるなか、AGI多次元世紀の「至誠通天」ナレッジグラフは解き明かされつつ。次元上昇の理を地域社会にどう落とし込むか、その貢献の要諦についてご指南いただければ嬉しく有り難く。問いを立てました。…
「知っている人」が、「できる人」を黙らせてはいないか?
お気に入りのプロスポーツの選手がスランプに陥っている姿を見て、僕らはそれを簡単に評論できる。「ああ、彼の調子のいい時は肘がもっと高い位置にあるのに下がっているのにな」「あそこで盗塁をするとは。何やってんだ。」 私たちは冷静に客観的にその欠点を見出すことができている気になっている。…
ファシリテーターは、道をつくらない。歩みが、道をつくる。
becoming。生成変化。人間は常に過渡期の人間である。サルトルは「実存は本質に先立つ」と言ったが、人間は、何かになっていくが、何者になっていくかは、予め決定されていない存在だ。私は、ファシリテーターを生業にしているが、会議におけるファシリテーションや、ワークショップにおけるフ…
ファシリテーターは場の「外」に立てない——観察者と場が溶け合う瞬間の認識論
私のファシリテーションでは、物事の観察の仕方、受け取り方にパタン・ランゲージで有名なクリストファー・アレグザンダー氏が提唱した「ネイチャー・オブ・オーダー」の15の幾何学的特性が元になっていまる。 ファシリテーターが場を観るのには、各自のそれまでに学んできたことが色濃く出る。その…
道具は、あなたを待っていない
学生の頃あんなに熱中した趣味が、モノはあるのに手をつける勇気?がだんだんなくなってくる。もしかすると、昔のように熱中できなくなっている自分を避けたいのかも?…
知らないことが、人間を人間たらしめる
近代の経営学と哲学はともに、「理性化・科学化・形式知化」を深化させることで発展してきた。しかしその過程で、人間の本来の姿——野性(wildness)という実相や本性——を遠ざけ、見ないようにしてきたのではないか。人間の価値観が見えることや知りえることに傾斜し、数値化できるデータや…
短期の震えが、長期の軸を育てる
最近、友人からリックルービンの創作術という本、リック・ルービンが関西弁で語るYouTube番組を知りました。その中でリックルービンは「他人がどう思うかは関係ない。自分自身に目を向け、自分がどう感じるかを重視すべきだ」と話しており、非常に共感しました。 ちょうど同時期に、永田希さん…
音は発せられるのではなく、出会われる
私は、アコースティックギターと歌声で、20年以上ボサノヴァを弾き語り続けている。 私の周辺だけでなく音楽を嗜む人々の世界では楽器やツールに関する議論が尽きることは無い。「ギターの弦の巻き方はどういう巻き方が一番良いのか」、「このジャンルにはこのメーカーのマイクが合うぞ」、「歌うと…
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認識と判断はどこまで拡張できるか
記述は、現実を切り取るたびに現実を失う
私たちはふつう、時間と空間を世界の前提として考えている。時間が流れ、その中で物が存在し、空間の中を移動すると考える。 しかし、本当に最初に与えられているのは時間や空間なのだろうか。 私には、むしろ原初的に与えられているのは運動ではないかと思われる。 私たちは本来、未分節な運動のた…
潜在性は眠っていない——発揮されない能力には必ず条件がある
人間にはポテンシャルがたくさんあるものの、発揮できる人とできない人、自分を理解している人、していない人がいると思っています。さらに発揮したあと、可能性を開花して、拡張していく方法がどうすればできるのかを知りたい…
「私たち」は、対話の中でしか生まれない
メタ認知とは、自分自身を客観的に認知する能力と言われています。 つまり、自分はどのように情報を得て、どのように感じ、どう考えて、このように行動したら、こういう結果になったと、自分で説明できることです。 この個人のメタ認知の考え方を組織に応用していくには、「私→あなた→私たち」と視…
「たまたま」が私を選んでいた——無意識の判断を取り戻す
人が何かを判断する瞬間、ほぼ無意識の時が多い。自分ですら言語化できず「たまたま」「何もなく」「いつも通り」で流れている気がする。自分のことすら分からない1人10色時代。このままで良いのか?スマホやバズ情報に乗っ取られて良いのか? 全ては「自分ゴト起点」 1人1人が「自分ゴト起点」…
即興スピーチは、沈黙の技法を体に刻む
私は研修講師やファシリテーターとして仕事をしています。また、ファシリテーター養成や場を作るお手伝いしています。そのスキルの点にフォーカスをした場合、いかに無駄なく言語表現を状況に応じてできるかが鍵であると考えています。それは言い換えるといかに話さないで、やってほしいこと、考えてほ…
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あわいと関係性はなぜ消失したのか
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東洋の身体観は近代にどう翻訳されるか
創造性を高めようとするほど、創造は遠ざかっていく
創造性とは一体何であり、何のためのものなのか。西洋と東洋ではどのように捉え方が異なるのか。 西洋では、1950年以降、Creativityという言葉が使われながら、一部の天才に閉じられていた才能が、一般人でも強化しうるものとして意図的に喧伝されてきた。それらは、軍や企業の人材育成…
見立ては、世界を二度生きさせる
最近、自分の経験と現実がマッチして、世界が爆速で広がっている感覚がある。 贈与論、動的平衡、ポリフォニー。 私がいま気になるワードたち。すべて繋がる感覚がる。 その中からの哲学的な問いに対して惹かれてしまう。 わたしにとって、哲学は相手に気持ちをつたえるためのコミュニケーションツ…
生きることを、養う。
東洋医学は神仙思想が主軸となっており、それはまさに個人の幸福について思索をした老荘思想そのものであります。現在では疾病による身体の課題を解決する医学(コメディカル)として認識されていますが、実際には老荘思想による生き方の学びと、神仙思想による身体の養生の2軸によって心身一如で幸福…
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